人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

車がない生活とは

生活保護では車を持つこともままならない

 帰省して、義姉のミチコさんと地元の喫茶店にモーニングを食べに行った。そこの喫茶店は自動車学校のすぐ隣にあり、昔ミチコさんが車の免許を取りに通っていた時によく利用した場所だった。聞くところによると、自動車学校も喫茶店も経営者は同じだそうだ。地元ではどこの店もモーニングサービスが盛んな土地柄だが、その店は他とは一線を画していた。他の店は皆値段が380円ぐらいだが、そこは580円で少し高い。それなのに、いつも駐車場はいっぱいで、がら空きだっだことなど一度もない。値段が高いにもかかわらず、人気があるのはモーニングの内容の質が高いからに違いない。私も、スパニッシュオムレツやミニサンドイッチがとても気に入っている。それと、北欧風の緑の建物がどこか外国にでもいる雰囲気を漂わせていて、なんだかいい気分になれるのも魅力のうちのひとつと言える。

 さて、そのモーニングに行った帰りに、ミチコさんは「無人の野菜売り場でナスを買いたい」と途中で車を止めた。ふと見ると、畑の脇に木枠で棚ができていて、普段はキュウリやナス等が置いてあるという。私が車の中で待っていると、そこへ一台のタクシーがやってきて停まった。中から女の人が下りてきて、ミチコさんに話しかけている。どうやら知り合いらしく、数分程度、立ち話をした後タクシーに乗り込むと行ってしまった。ミチコさんは車に戻ってくると、「あの人はタクシーでお寺にあるお墓に行くところだから、家まで送ってあげたい」というようなことを話した。お寺での用事はすぐに済むらしい。要するに、何を言いたいかと言うと、また帰りもタクシーで帰らなければならないのなら、ついでだから自分が家まで送りたいという趣旨だった。

 お寺の前で、車を停めるとミチコさんは急いで中に入って行った。少し待っていると、白髪の老婦人と一緒に外に出てきて、車の後部座席に乗り込んだ。「ほんと、凄く助かった」と言いながら、ミチコさんに感謝の言葉を繰り返す。その人は、帰りはあまりタクシーにも乗ってはいられないので、バス停が歩いて10分くらいのところにある市バスに乗って帰るつもりだったと言う。たかが10分だが、最近の猛暑ではそれくらいでも高齢者にとっては、いやそうでなくても、身体に負担がかかることは間違いない。公共交通機関がほとんどない田舎では、車がないと、日々の行動が怖ろしく制限されてしまう。例えば、歯医者や眼科、もちろん、買い物に至るまで、目的地がとても歩いていける距離にはないので、タクシーのお世話になるしかないのが現実だ。

 ミチコさんの話では、あの老婦人はアパートで暮らしていて、以前は車を持っていたのだが、今は車を手放していた。その理由はなんと生活保護を受けるようになったからだと聞いて、仰天した。かつてエアコンが贅沢品であったように、車もそれに相当するという認識しかないらしい。信じられない、あんな交通手段が何もない地域で車を取り上げるだなんて、一体何を考えているのだろう。車は自分の足と同じで、乗れなくなっなったら、即、身動きが取れない。以前兄の葬式で久しぶりに会った二番目の兄も、この先今より年を取って車に乗れなくなったときの不安を隠そうとしなかった。やはり、何処にも自由に出かけられない、まさに”陸の孤島”とでも形容できるような場所に住んでいることを嘆いていた。持ち家があっても、十分な年金があったとしても、それだけでは心もとないのだ。生活に必要な何もかもが、遠くにあって、歩いて行けるような便利なところにない、こんなどうしようもない現実ほど、人を不安にさせるシチュエーションが他にあるだろうか。彼らにとっては、車の免許返納はほとんど、死を意味する。

 田舎に住むのが一時ブームになったときもあったが、年を取ったらどうするのだろうか。まさか、その時のことを考えもしないで、田舎に住むと言う決断を下すわけもないのだろうが。最近、呆れるほどに楽天家のミチコさんも、「もしも、車に乗れなくなったら、迎えにも行けないからタクシーで来なきゃダメだよ」と冗談とも本気ともつかないことを言うようになった。念のため、付け加えておくと、都会で見かけるような三輪の電動カートに乗っている高齢者は見かけたことがない。

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