人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

休日に出かけなくなった

今週のお題「変わった」

それまで外にばかり向いていた視線が中へ

 考えてみると、コロナ前の私は休日になると朝から出かけて、夕方に家に帰る生活をしていた。夜出歩くのがあまり好きではない私は辺りがうす暗くなるとそわそわした。家に居たくなかった。せっかくの休みの貴重な時間を家でダラダラ過ごすなんて、もったいなくてできなかった。それは家に居ても何も面白いことがないからでもあった。外に行けば、何かしら変化を感じることができた。別に何か特別なことを期待していたわけでもなかったが、頭の中にある雑多な、どうにもならない問題をしばしの間棚上げにすることはできた。要するに頭の中のクリーニングで、世にいう気分転換という行為だった。どうやら私は外に行くことによって、大事な問題をカモフラージュしていた。

 外へと向かう交通手段はもっぱら徒歩で、知人に「バカじゃないの?電車で行けばいいのに」と呆れられた。都心に徒歩で行くのにはちゃんとした理由があって、ちっとも馬鹿な行為ではないではないと思うのだが。電車なら20分で行ける都心に1時間以上かけて歩いて行くことに大いに意味があった。何でもいいからできるだけ早く目的地に行くことに、何の意味があるのだろうか。自分の足で歩いて行けるからこそ意味があるし、また乗り物に頼らずに自力で行けることは自信にも繋がった。自分の家から目的地までの道を知っているだけで、なんだか安心できた。あの頃の私は道草や、歩くことに熱中していた。何も考えず、ひたすら歩くことに集中していた。

 歩き疲れたら、どこか適当なカフェで休憩して糖分補給し、また歩き出した。携帯の歩数計が2万歩を超えたこともあった。今考えると、さぞかし疲れただろうなあと思うが、その時の私は達成感で満ち溢れていた。家に帰ってきても、疲れなどなくすぐに夕飯の支度が出来た。どうしてあんなに歩くことにこだわったのだろうか、決してダイエットをしたいわけでもなかったのに。運動では痩せないことは分かっているし、どう猛な食欲を制御できるほど意志が強い人間でもない。となると、「人間は速足で歩いていると何も考える暇などない」という誰かの本で読んだ、たぶん僧侶かなんかの先達の言葉に影響されたのだろう。

 それに当時はちょうど東日本大震災が起こって、「あなたは職場から家まで歩いて帰れますか?」というメッセージが胸に迫って来たころだった。その影響もあってか、歩くという行為が突然クローズアップされたのだろう。歩くだなんて、それも電車に乗ればすぐの距離を歩くだなんて無駄な行為をどうしてしなければならないのか。そう言う思考になるのも無理はないが、でも世のなかには健康のために一駅や二駅ぐらいは余裕で歩いている人もいるので、人間の考え方は様々で実に面白い。かくいう私ももちろん家から会社までの道のりを何度も歩いて、公共交通機関に頼らなくてもちゃんと家に帰ることができることを証明した。家から会社までが繋がっているという感覚、そこへ至るまでの道筋を知っているという自信は私に深い安心感をもたらした。いつでも家に歩いて帰って来られると思うだけで、心の平安が保たれた。

 さて、現在の私は休日は家に閉じこもって、滅多にどこにも出かけない。コロナ禍の状況を引きずっているわけではなく、家でやるべきことが山積しているからだ。昔の家に居たくないだなんて寝言を言っていた自分はもう存在しない。コロナ禍のせいで、自分の部屋が一番安心できて、集中できる場所だと昨年の年末に悟った。その時思った、私のこの3年間はいったい何だったのかと。今さらそんなことを言っても後の祭りだ。突如として英語の勉強に目覚めた私は、それまで無駄にした時間をもったいないと心底思った。もっと早く気づいていればよかったのに、どれだけ沢山のことができただろうかと想像してみたところで、何の役にも立たず、時間の無駄に他ならない。あの3年間は目標を持つことさえ考えられない時を生きていて、その日その日を暮らすのに精一杯だったのだから。

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