人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

推し活がテーマの小説

正直言って、ピンとこない話題に戸惑ったが

 最近突如として、夕刊の楽しみがなくなってしまい、つまらなくなった。なぜかと言うと、日経新聞に連載していた宮城谷昌光さんの『諸葛亮』が3月31日をもって終わってしまったからだ。もちろん1年も経つのだから終わるのは分かっていた。三国志で一番人気の諸葛亮の小説なのだから面白くない訳がない。劉備の死後も諸葛亮の活躍は続いたのだが、中国ドラマの中に出て来る超能力でも持っているのかと疑ってしまうような虚像とは一線を画していた。この小説の中に出て来る諸葛亮は、使臣を重んじ、常に使臣の意見に耳を傾ける謙虚な人だった。あの超人とも思えるイメージが付き纏う彼が馬謖の件では判断を誤って、”泣いて馬謖を斬る”ことになった。その顛末が詳しく書かれていたので、「なるほどそういうことだったのか!」と思わず膝を打った。

 軍紀上、馬謖は処刑されたが、実はこの時諸葛亮は自分も責任を取って死ぬべきだと考えた。それでも思いとどまったのは、自分が死んだら国が混乱するだろうことは分かっていたし、それに自分が死んだからと言ってそれが責任を取ることにならないとの判断からだった。そう言えば、以前中国語講座でMCを務めていた劉セイラさんが、「今一番会いたい人はだれですか」という質問に「諸葛亮」と答えていたのを思い出した。その理由は「なぜ先が見えていて、ダメだとわかっているにもかかわらず、劉備に付き従ったのか」ということで、できる事なら直接聞いてみたいからだそうだ。

 そして、3月末に『諸葛亮』の次に始まる新しい小説のお知らせが載っていた。なんと4月から始まるのは朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』だった。そうだとわかった途端、思わず「ウエ~ッ」となって「また~」となって絶句した。なぜなら、朝井さんは現在中日新聞に『生殖記』を連載中で、私もなんとなく読んでいて、いつも「この先主人公はどうなるんだろう」的なことを思っていた。「どう落ち着かせるつもりなのだろう、この状況を」とも感じていた。この小説は何と言っても語りが主人公の生殖器に”住み着いている”とも言える”わたし”であり、ストーリーはほぼないと言っても過言ではない。この先劇的な何かが起きるのではないことも、薄々は見当がつき始めていた。なので、しばらくはこの小説のペースとお付き合いする、そんなスタンスで構えていた。毎日チラッと読んでは、切り抜き、まるでそれが義務でもあるかのようにスクラップしていた。

 そんな状況だったのに、またまた朝井リョウさんの小説と日経の夕刊で出会うことになった。これは朝井さんがどうのこうのとかではなくて、個人的な好みの問題であって、同時に同じ作家の小説を読むことになんだか複雑な気持ちになっただけのことだ。できれば、もっと違う人が良かったなどとこそっと呟いてみたところで始まらない。朝井さんの今度の小説は「推し活」がテーマだという。新聞の告知には『今作は、好きな対象を熱烈に応援する『推し活』を、その仕掛けを施す側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側、世代の異なる各視点から描く現代小説です」とあった。

 さてどれどれと、4月1日に紙面を開くと、冒頭に「のめり込む側」と推測される少女の父親の名前が載っていた、『1,久保田義彦』と。以降、彼がどんな人なのか、どんな父親なのか、妻や娘との関係がどうなっているのかが描かれるのは想像するに難くない。このとき、私はあることを思い出した、そう言えば、『桐島、部活やめるってよ』の書き出しもそんな感じだったなあと。誤解されるといけないから言っておくが、私は朝井さんの小説を一度もまともに読んだことがない。デビュー作の『桐島、部活やめるってよ』も本屋でパラパラッと捲ってみただけだ。冷やかし程度の何ともけしからん態度で斜に構えて、朝井さんの小説を遠くから見ていた。以前、朝日新聞の夕刊に週に一度連載していた、『スター!』も横目で見て、読むのをスルーしていた。

 いずれにせよ、「推し」は私なんぞが知らないうちに、立派に市民権を得ているのだなあと感慨深く思う。時代の流れを感じるが、テレビ番組で、誰かが「推し」の存在が私を勇気づけ、生きる活力を与えてくれると発言していた。それで気づいた、誰かにとっては「推し」は必要不可欠なものだなのだと。

mikonacolon