人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

コロナ禍で宅急便が届いたら

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▲いつも通っているのにユリの花に気が付かなかった。大型スーパーに行く途中で。

何でも捨てずに取っておく自分になっていた

 夕方宅急便で田舎から荷物が届いた。段ボール箱を開けると、先週行われた法事の引き出物が入っていた。バスタオルのセット、味付け海苔のセット、お菓子等がそれぞれ包装紙にきちんと包まれていた。それらをすべて剥がして中身を確かめたら、ものすごい量の紙のごみができてしまった。明らかに過重包装で今の時代に逆行しているし、資源の無駄にほかならない。以前の私ならすべてそっくり燃えるごみの日に出してしまうと思う。でも今は自然に体が動いてハサミを持ってきて、包装紙をメモ用紙にしようと切り始めた。箱に貼ってあったのし紙も、薄い段ボール紙も厚めのプラスチックのシートも捨てずにいつのまにか再利用しようしていた。おかげでごみは何ひとつでなかった。面倒な作業だったが、正直すっきりとした気分になった。何が自分をこんなに変えたのだろうか。明らかにこの数か月のめまぐるしい環境の変化が大きく影響しているのは間違いない。厚めのプラスチックのシートを見たら「これはフェイスシールドに使えるかもしれない」なんて思って苦笑してしまった。コロナウイルスのせいで考え方が180度変わってしまったのだ。

片付いているのが本当に幸せか

 もう片付けを人生の目標にしなくていいのではと思えてきた。コロナ禍で先の見えない生活の中では、家の中を片付けることに強迫観念を持つこと自体意味がない。むしろ生活防衛のために物を「溜め込む」ような行動をとってしまうのが自然だと思う。部屋を「片づけること」などどうでもよくなり、1日1日を精一杯生きる必要に迫られるのだ。かくいう私も「何もない部屋」が理想だったが、普通の生活ができない現実に直面した。今では困らない程度の部屋でいいかなあと考えるようになり、こだわりはほとんどなくなった。

 「片づける」という言葉からは、どうしても人生の片づけ、つまり「生前整理」を連想してしまう。以前読んだ小説では余命宣告を受けた青年が主人公で人生最後の片付けを決心する。彼は恋人に別れを告げ、わだかまりがあった友人とも和解して、少しでも自分の重荷を軽くしようとした。「立つ鳥跡を濁さず」と決めて住んでいるアパートの片づけを始めたら、けっこうやる気が出てしまって自分でも意外だった。部屋が綺麗になるのが嬉しくて、自分がもうすぐ死ぬことなどケロリと忘れていたらしい。しかし部屋が片付くにつれて、「もうすぐ死ぬのだ」という変えようもない事実に苦しめられた。小説の最後で、彼は資源ごみの日にひもでまとめておいた書籍を出しに行く。その行為で彼の人生の片づけは終わったのだ。「僕は消えた」という表現は、具体的には病院に入院したと解釈していいのだろうか。それは読者の自由に任されていると思う。

コロナでミニマリストの受難の時代が

 先日ネットで「コロナ禍でミニマリストは今どうしているか」というインタビュー記事を見かけた。内容は想像した通りで、人間は本能で危機的状況を敏感に感じ取るらしい。あるミニマリストは物が何もないスーパーの店内を目撃して衝撃を受けた。家にはできる限りストックを置かないようにし、スーパーを冷蔵庫代わりにしてきたがもはやその機能をはたしていない。そこで長期保存可能な食品を大量に買い込んでみた。おかげでひとまず心の平安を取り戻すことができた。もはやミニマリストとは言えなくなった自分に戸惑うばかりだという。ミニマリストの中には必需品ともいえる冷蔵庫を捨ててしまった人もいる。きっとコロナ禍では冷蔵庫なしで生きてゆくことは不可能だから、買いなおすしかないと思う。これからは外に依存するのをやめて、自分の家で自衛するしかないようだ。コロナの時代にはミニマリストでいるのは困難に違いない。

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