人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ペトログリフの謎

それが何か、映画でわからなくて拍子抜けしたが

 昨日の続きを書こうと思う。ペトログリフと聞いてもそれが何か見当もつかないリョーハのためにラウラはカバンから何やら分厚い本を取り出す。「これよ、これを見るために行くの」と彼にあるページを見せて、わからせようとするのだが、その映像は映画の観客には見えない。それでますますペトログリフが何なのか、どういったものなのか謎が深まった。こうなると自然とストーリーの進み具合に興味津々となって、もはや退屈などしている場合ではない。当然ラストシーンでは見れるものと期待は高まるが、結局はそれさえも泡と消えて、拍子抜けした。なぜならペトログリフは冬に見に行くものではないと周りにいる誰もが口をそろえて言うからだった。

 ではどうしてラウラの恋人である女性教授は、「ペトログリフを見に行こう」だなんて彼女を誘ったのだろう。おそらくそれが冬に見るべきものではないとわかっていたのに、周到にホテルまで予約した。それを知らない彼女は行く気満々で、ドタキャンされても、必ずペトログリフを見られるのだと信じていた。「危険だから、とてもそこまではいけないよ」と見に行くことを断られた彼女は、思わず恋人に電話してしまうのだが、相手がとにかくそっけない。「そうなの、忙しいから切るわね」だなんて、絶望的になっている彼女に対しての気遣いは全くない。これが本当に出発直前まで愛し合った恋人なのだろうか、観客としては疑いたくもなる。

 恋人の身も心も凍るような冷たさの対極にあるのは一見粗野にも写るリョーハの温かさだ。二等車に迷い込んで、席が無くて困っていた男性をラウラは自分のコンパートメントに来ないかと誘う。ラウラは大歓迎だが、リョーハはなんだか不機嫌で終始しかめっ面をしている。男性は「ちょっと趣味でやってるだけなんだけど」と言いながらギターを奏でて、コンパートメントの空気は盛り上がる。ところが、「ありがとう、助かったよ」と感謝して、目的地で列車を降りたとき、ラウラはあることに気が付いた。恋人にビデオレターを送ろうと撮りためてあったカメラが見当たらない。間違いなくその男性が持ち去ったのだ。地団駄踏んで悔しがるラウラを見ていたリョーハは「みんな死んじまえばいいんだ!」とまるで自分のことのように叫んだ。

 「悪いことは早く忘れた方がいい」だなんて屁理屈は一切言わない。皆に説得されてペトログリフを見に行くことを諦めかけたラウラの背中を押してくれた。ムンマンスクに行って目的を果たす、ただそれだけのためにはるばる来たのだから、絶対そうすべきだと言いたいのだ。リョーハは頑として諦めないが、私たち観客にしてみれば、それは明かに無謀だと思われて、ドキドキしてしまった。どうにかこうにかペトログリフのある場所にたどり着いたのに雪原の中にそれらしきものは見当たらない。辺り一面の氷と雪の中にしゃがみ込みラウラはなにを思ってか微笑んでいる。リョーハが「これで終わりか」と尋ねると、彼女は「これで終わり」と彼に笑顔で答えた。

 ここでのリョーハの「これで終わりか」は私の推測では「これで満足したのか」という意味なのだろう。ラウラにしてみれば、これ以上考えられないくらいにやり切ったと言う満足感で一杯なのだ。もう悔いはないのだと。お目当てのペログリフには出会えなかったが、リョーハのおかげで不思議と失望感とは無縁のようだ。

 一方、映画の観客としての私は最後の最後に楽しみを奪われた形になった。拍子抜けしたせいか、どうしてもペトログリフのことを知りたくなった。そうなると、することは決まっている。いつものように「ペトログリフ」と打ち込んでネット検索をしてみた。『ペトログリフとは象徴となる岩石や洞窟内部の壁面に、意匠、文字が刻まれた彫刻のこと、ギリシャ語で石を意味するペトロとグリフ(彫刻)の造語である』と出ていた。具体的には植物の木や動物の模様のことを指すらしい。要するに、何も知らない素人の私たちが見て、思わず「おお~っ」と感動するものでもないらしい。それがわかっただけでも意味があったと言える。洞窟と聞いて頭に浮かんだのは、子供の頃教科書で見たことがあるフランスのラスコー洞窟の写真だった。

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