人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ロウバイ

見ごろは過ぎたが、独特の光沢は残っていた

 昨日、飛鳥山記念公園にロウバイを見に行った。園内には、紅梅があでやかに咲いていて、人々をくぎ付けにしていたが、私の関心はロウバイだけだった。そもそも、私がロウバイ、つまり、蝋梅のことを知ったのは、テレビのクイズ番組だった。シャクヤクやら、金木犀ライラック山茶花などのいくつもの写真が映し出され、それらの名前をゲストが当てていくという形式だった。その時に、何やら黄色くて、可憐な花だが、これまで生きて来て、まだ見たことがない花が登場した。それが、ロウバイで、蠟燭の蝋に、ウメと書いてロウバイと読み、いわゆる、黄色い梅の花のことを言うのだと知った。だが、この花はタダの黄色い花などではなくて、花の名に「蝋」とある由縁は、花が蝋細工のような光沢を持ち、まるで人工的に作り出された美術品でもあるかのように感じられるからだろう。もちろん、テレビに映し出された写真からは、そんなことは分かるはずもなかった。その時は「へえ~、そんな花があるのか」ぐらいに思い、頭の中を通過しただけで、ずうっと忘れていた。ましてや、何処かに見に行って見たいなどとは露ほども思わなかった。 

 だが、最近私の周りでは、どういうわけかロウバイの話題に溢れている。例えば、先月の朝日新聞に連載されていた益田ミリさんのエッセイでは、ロウバイの話題になった。ミリさんは花屋でロウバイの小枝を買ってきて、花瓶に差して、その甘い香りを楽しんでいた。ふ~ん、いいなあ。できればそんな幸せを分けてもらいたいのに、近所の花屋ではそんないいものを見かけたことなどない。ああ、そうだ、ウメや桃の花ならたまに花屋の店先で、道行く人の目を惹いていたこともあったっけ。テレビで画面越しに見ただけでは、いったいどんな香りなのか、どんな花びらなのか、想像もつかない。となると、ロウバイを直に見たいという思いは募った。でも、今まで通りにすぐ忘れた。

 そんな折、中日新聞で、『ロウバイの光沢に感嘆』という千葉県柏市の江島興造さんの投稿に出会った。江島さんは羨ましいことに、散歩の途中の駐車場の奥にロウバイがあって、毎日その麗しい姿と香りを堪能できているという。残念なことに、私ときたら、いくら近所を捜し回ったところで、とんとロウバイには行きあたらない。縁がないのか、毎日殺風景で無彩色の世界を飽きもせず歩いている。私は色に飢えていた。いや、何も明るい華やかな色でなくてもいい、ロウバイのような、控えめでも気品のある黄色い花でいいのに、それが叶えられない。

 なので、運命のごとく、偶然出会うことを期待するのをやめた私は、自らロウバイに会いに行くことにした。園内の入口で、マップを貰い、どれどれとロウバイを探すと、ロウバイには2種類あって、ソシンロウバイロウバイが園内の2か所に咲いていた。冒頭の写真はソシンロウバイで、よく見ると花びらの周りが少し茶色っぽくなっている。人間で言えば、娘盛りを過ぎていて、どうやら私は絶世の美女の全盛期を見逃したようだった。私がスマホで写真を撮っていると、誰もが皆口々に「ロウバイはもう終わりだね」と言っては通りすぎていく。たまに、私と同様に、じっとロウバイの花を見つめている人たちもいて、「ソシンロウバイよりもロウバイの方が好き」と言い放つ人もいる。その人はそう言いながら「花びらがタコの足みたいにビラビラになっているの」と少し離れた場所にあるロウバイの木を指さした。なるほど、「タコの足」とはなかなか的を射た表現だと、心の中で拍手する。

 その「タコの足」も少し茶色くて、すすけた色になって、やがて枯れていく運命だ。それにしても、もっと早くここに来れていたら、と思うと悔しい気持ちでいっぱいだ。それでも、ロウバイの花びらを凝視してみると、先の江島さんの指摘どおりで、他の花にはない、精巧な工芸品であるかのような雰囲気を醸し出していた。来年は是非とも、”ロウバイの旬”を見届けたい。

 

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