人生は旅

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サンタクロースより傘地蔵が好き?

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 「わたし、地蔵派」ってどういうこと?

 昨日のクリスマスは私の周りでは嘘のように静かに過ぎ去りました。スーパーに行っても、例年のような”クリスマス感”はまったくありません。店頭でクリスマスケーキを販売する呼び込みの声も聞こえてきません。クリスマスには「やっぱりこれでしょう!」とお客を誘うように、ショーケースに並べられている美味しそうな照り焼きチキンも今年はない、寂しい限りです。それでも子供にとっては待ちに待ったクリスマス、きっとサンタクロースはプレゼントを運んできてくれたはずです。

 サンタクロースと言うと、以前読んだ朝日新聞の朝刊に連載されている、漫画家の伊藤理佐さんのエッセイを思い出しました。たしか、タイトルは『わたし、地蔵派』でした。頭が回らない私などはこれを見ても、何のことだかさっぱりわかりませんでした。『傘地蔵』は子供の頃読んだことのある昔話で、雪が降る寒い日にお地蔵さんが気の毒だからと、笠をかぶせてあげる、あれです。それをきっかけに次々とお地蔵さんに何かを置いて行く、そんな話だったような気がします。つまり、相手が何を欲しいか聞かないで置いて行くことなのです。

「置いて行く」方法は気楽でいい

 相手は期待などしていないのに、置いて行けば、そこには意外な喜びが生まれるに違いない、予期せぬことにワクワクするに違いない。そこに置かれている物は大したものではない、相手は面と向かってお礼を言われるのは気恥ずかしいのかもしれない。確かに「ありがとう」と社交辞令的に言われるのは申し訳ない気がするときがある。例えば、買いすぎて食べられないので、どうにか相手に押し付けたいトマト。あるいは、スーパーでコストコのフェアをやっている時、美味しそうに見えたので、欲望のままに買ってしまったマフィンの後始末をお願いするときとか。そんな時、このさりげなく「置いて行く」方法は重宝するし、後ろめたい気持ちにならずに済むのです。

 しかし、申し訳なく思っているまさにその時、電話やメールでさりげなくお礼を言われると嬉しくなってしまう。もちろん傘地蔵の相手は気楽な付き合いの人たちばかりなので、気に病むことなどないのですが。でもたまには例外もあって、思いだすと昔琴を習っていた時に田舎から送ってきたリンゴを先生のお宅に届けに行ったのです。そしたら留守だったので、メモを書いて玄関のドアにポリ袋を吊るしておいたのです。ただ持ち帰るのが面倒だったのと、蜜入りリンゴなので腐りやすいからすぐに食べてもらいたい、ただそれだけでした。予想通り、先生からさっそくお礼の電話が掛かってきました。あの時のリンゴはどこに出しても恥ずかしくない贈り物でした。

「あれ~?何だろう」で嬉しさ倍増 

 思うに、伊藤さんが言いたいのは、サンタクロースが置いて行くのは、自分がお願いしたものと決まっているということです。だからたいして感動はないのです。それで断然、地蔵派、それも外がいいそうです。「別に会わなくていいや、これ渡したいだけだから」というほんの軽い気持ちです。そんな時はチャイムを鳴らさないで、相手に見つからないように、こっそり置いておきたいのです。その時のスリルを味わうのも好きだし、自分が、いつの間にか「勝手に置いて行かれる存在」になったのを発見する、そんな驚きも貴重な経験なのだと言う。ご近所さん同士の繋がりとは、まさに「地蔵派」のことを指しているのではないか、とふと思ってしまいます。伊藤さんがエッセイの最後に書いています。ママ友のパパにも「置いて行かれる身分になってしまった」ことについては、しみじみと、すると。

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