人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

駅そば

駅そばで思い出すのは・・・

 漫画家の伊藤理佐さんが新聞のエッセイで、駅そばについて書いていた。伊藤さんは長野の出身で昔は学校の帰りによく駅そばを食べていたそうだ。当時は友達と半分こしたり、食べてる途中で「あ、電車来た!」と慌てたこともあったという。長野と言えば、そばが美味しいというイメージがなんとなくあるが、御多分に漏れず、立ち食いそばといえども例外ではなかった。意外にも伊藤さんの悩みは「帰省した時に地元の駅の立ち食いそばが食べられない」ということだった。どういうことかと言うと、立ち食いそばを食べるということは、「母親の手料理を食べない」ということを意味するらしい。母親が娘の帰省のためにイソイソとあれこれ準備して料理するのを、その愛情を無下にするのが「駅の立ち食いそば」なのだそうだ。例えば、「お腹空いたでしょう?」と母親に尋ねられて、「さっき、駅で立ち食いそば食べて来たから」などと言おうものなら大変だ。「ええ~、立ち食いそば!?と歓迎ムードが一瞬のうちに凍り付くのだ。

 せっかくの帰省なのに、駅の立ち食いそばで済ますという行為をまず理解してもらえないのだ。ところが、最近は幸か不幸か、駅そばが食べられるようになった。その理由は「母が、父の介護が始まってから、老人二人分は楽だけどさ、ごめん」と言うようになったからだった。それで、伊藤さんの心境は「駅そば、うまい、やっと食べられた、うれしい。さみしい」などと、なんとも複雑なのである。

 駅の立ち食いそばといえば、今でも思い出すのは、東北出身の友だちの実家に遊びに行った時のことだ。その時も駅に立ち食いそばやさんがあった。それも電車が入ってくるホームにあったので、電車を待っている空き時間にチャチャッと食べられて便利だった。最初はなぜ、駅のホームに立ち食いそばがあるのか不思議でならなかったが、すぐにその謎がわかった。それはこの駅が一応曲がりなりにも新幹線の到着駅であるにもかかわらず、弁当というものが売っていないことに原因があったのだ。もちろん、カモメの卵や昔ながらの煎餅は売っているが、なぜか弁当だけは売られていなかった。要するに、主要駅でないためにそれほど需要がないから弁当は売られていないのだった。

 そう言えば、駅の売店でお土産を買うついでに、「弁当は売っていないのですか」と店員さんに聞いてみたことがあった。その時の答えは「弁当は新幹線の中で買ってください」だった。それはもっともなのだが、車内販売は弁当の種類を選べないこともあるし、それに運が悪いと売り切れでサンドイッチしか残っていない時もある。何と言っても列車での旅は弁当を食べながらに限ると自分なりのこだわりを持っていた私はがっかりした覚えがある。そんな落胆した姿を見かねたのか、見送りに来てくれた友達の家族が「じゃあ、立ち食いそばでも食べようか」と声をかけてくれた。時計を見るとまだ少し時間がある、そばぐらいなら食べられるはずだ。 

 お言葉に甘えて、立ち食いそばをご馳走になった。あの時はちょうどお昼時だったので、ついでだからと見送りに来た全員がそばを食べた。遠方から誰かが来るのでない限り、普段は全く用がない駅で、駅にどんな店があるかも知らないはずで、興味もないはずだった。家から車まで25分もかかる新幹線の停車駅で、どう見ても高すぎる値段のそばを彼らは食べることになってしまった。頭の中で人数分、ざっと計算してみて、なんだか申し訳なく思った、彼らに散財させてしまったことに。

 その後、何年かたって、また行く機会があったが、すでにその立ち食いそばやは無くなっていた。初めて行った時もお客さんは見当たらず、閑古鳥が鳴いていたが、そのおかげで、私たちはすぐにそばを食べられた。確かに地元の人たちにとっては無用の長物だったかもしれないが、私のような俄かの訪問者にとっては、“開いてて、よかった”ならぬ、「そこにあって、本当によかった」と思える存在だったのかもしれない。

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