人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

給食の時間が短すぎる

給食を楽しめない現実があった

 小学校の頃を思い出すと、学校に行く目的は、なんといっても給食を食べることだった。先生や親や周りの大人に、学校は勉強しに行くところなどと教えられたが、本当は勉強なんてやらされるもので、嫌々やっていた。そんな毎日の楽しみと言うか、救いともいうべきものは、給食だった。給食があるからこそ、学校に行けたのだった。月の初めに給食の献立表が配られると、真っ先に自分の好物がどの日にでるか、探して赤鉛筆で丸を付けた。特に、コッペパンを油で揚げて、砂糖とシナモンをたっぷりまぶした揚げパンが大好きだった。

 ところが、今の子供の意見を聞いてみると、なんだか自分の小学校の時とは様子が違うようなのだ。もちろん、コロナ禍で黙食になったと言うこともあるが、それとは別に、給食の時間そのものが短いので、楽しめないという現実が見えて来た。朝日新聞のコラム『若い世代、こう思う』に寄せられた意見の中で、福岡県の中学生、志田悠華さんは、「短すぎる時間、楽しめない」と書いている。志田さんの学校の給食時間は35分で、その中には準備の時間も含まれていて、早くしないと、食べる時間がなくなってしまうので、大急ぎでやろうとする。それでも、直前に体育などがあったときは着替えに時間がかかって、給食を食べる時間が15分程度になってしまう。その結果、黙食でなくても、食べるのに集中しなければならないため、人と話をしている場合ではない。志田さんはそんな状況では、皆とワイワイガヤガヤしながら、食べるはずの楽しい給食の時間は望むべくもないと訴えている。本来は給食は楽しいもののはずなのに、現実はただ、食べ物を食べるためだけの虚しい時間で終わっている。なので、もっと給食時間を伸ばして欲しいと要望しているのだ。

 当方は給食の時間と言われても、遥か昔のことなので実感があまりなく、身近な問題として捉えることができなくて歯がゆい限りだ。一体全体、どのくらいの時間が適切なのかもわからないし、自分が小学校の時、どうだったかと思い出すと、皆と喋って楽しくやっていたとしかとしか言えないのだ。ただ、同じ紙面で、小学校の息子さんがいる家庭教師をしている人が、「うちの息子の学校は給食の時間は20分しかないのです」と歎いている記事を見つけた。さすがに、いくら何でもこれは短すぎると共感せざるを得ない。これでは、ただ食べて終わりで、人ではなく、まるで機械かなんかのようにも思えてくる。「給食を人間らしい食事時間に」して欲しいと切に訴えていた。

 私の場合、給食は小学校の時だけで、中学校は弁当を持って行った。大人になって、職場の同僚や友人と給食の話になると、皆中学も給食だったと言うので少しびっくりした。考えてみると、あの頃は給食当番というものがあって、一週間ごとに班で担当していた。給食当番の三角巾、白い割烹着みたいな白衣を当番の人は家で洗濯をして、月曜日に持ってくることになっている。それをケロリと忘れて、嫌な顔をされたこともたびたびあった。こんなときは宿題を忘れたのと同等の穴があったら入りたい事態で、きまづい思いをすることになる。それに、自分の当番の時にカレーの日があったときなどは、よほど気をつけないと白衣にカレーのシミが付いてしまう。カレーは一度ついてしまうと、ちょっとやそっとでは落とせないから厄介だ。いつものように洗濯しただけでは、カレーのシミは落ちるわけもなく、できるだけ染みを薄くするしかない。相当に親に頑張ってもらうしかないが、次の当番の子に渡すときは、後でなにか言われないかとい冷や汗をかいた。

 それでも、やはり、給食は、学校へ行くためのモチベーションになりうる大事な物だ。食べることは生きることであり、、食べることは本来楽しいものでなければならない。皆で同じものを食べて、ワイワイガヤガヤやって楽しむ、そのことが給食の役割なのは間違いない。だから、もっと楽しくするにはどうしたらいいか、真剣に考えるべきだと思う。

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