人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

プールの授業はいらない?

小学生の予想外の発想に仰天

 今日も昨日の続きで、箕面市立豊川南小学校の生徒さんの意見について、感じた事を書きたいと思う。私が一番仰天したのは、6年の橋本渉さんの「プールの授業はいらない」という意見だった。これには、正直言って椅子から転げ落ちるような衝撃を受けた。まさかこんなことを考える生徒さんがいたなんて、驚きでしかなかった。橋本さんは、まずはじめに、「学校には、必ず、プールがあります。どうして学校では、プールの授業をしなければいけないのでしょうか」と素朴な疑問を投げかけていた。こちらとしては、そりゃ、そのためにプールがあるからだし、そう言うことになっているからで、それが普通でしょう、などと言った根拠のない答えしか見つけられない。何とも、あいまいで、情けなくて、説得力のないことこの上ない。

 私のようなおばさんは、子供の頃から、上と言うか、学校の先生に従ってさえいれば、平穏に過ごせると考えてきた。少しはなんか違うと思っていたとしても、そんなことには目をつぶりできるだけ楽な方に流れる。いや、そんな余計なことは一切考えなかった。いわば、奴隷状態のようなもので、静かな湖面に一石を投じるなんてことは恐ろしくてできなかった。なので、私にとって、橋本さんは,なんて勇気があるのだろう、と感心する反面、その考えはすこし偏り過ぎているのではとも思う。でも、それが極論だとしても、自分が思ったことを堂々と主張できる姿勢は素晴らしい。

 橋本さんは、「水泳の授業は別になくてもいい」という意見だ。その理由は、「算数や国語は生きていくために必要ですが、水泳ができなくても生きていける」からだった。それから、「プールには大量の水がいります。水不足で節水が必要だといわれる夏もあるのに、こんな大量の水を使ってもいいのだろうかと、思ってしまいます」と鋭い指摘もしていた。昨今はSDGsが推奨されているのにも関わらず、時代に逆行していると考えたとしても、不思議ではない。さらに、「何回か、水泳の授業をやったぐらいで、泳げるようになるほど、簡単な話ではない」という記述には、胸がズキンとした。

 そうなのだ、ここにその見本のような人間、つまり、私がいる。片田舎でぼんやり育った身としては、都会の子のように、スイミングスクールに通うとなどという選択肢はなかった。学校のプールの授業では、ビート板でバタ足をバシャバシャやっているだけで終わった。泳げる子は自由に泳ぐし、先生も子供があんなにたくさんいるのだから、一人ひとりに手はかけられない。今思うと、泳ぎを教わると言うより、要するに、あれはプール遊びのようなものではないだろうか。暑くて堪らないから、プールにでも入って、”涼をとる”みたいな感覚だったのではないか。学校のプールの授業で、泳ぎ方を教わった記憶もないが、それなのに、泳げる子はちゃんと泳げた。あれはどうしてなのだろうか。

 そうやって、ぼんやりとした子供時代を過ごした私も、大人になったら、急に自分が泳げないことが不安になった。もしも、海や山で溺れたらどうしようと、想像しただけで、ゾッとした。そうなると、居ても立っても居られなくて、早速、スイミングスクールの初心者コースに申し込んだ。週に2回通うコースで、私はやる気満々だった。頑張って泳げるようになったら、こんなどうしようもない私でも少しは自信がついて、人生が変わるかもしれないと淡い期待を抱いていた。ところが、初回のレッスンで、不都合な真実を突き付けられてしまった。というのも、初心者コースには私を含めて6名ほどの女性がいたのだが、てっきり皆自分と同程度に泳げないとばかり思っていたら、それが大間違いだったからだ。

 初心者コースと言っても、私以外は皆ちゃんと泳げた。少し先で見守っている先生のいるところまで、かなり上手にクロールで泳げるのだ。こんなに泳げるのに、どうして初心者!?と驚かざるを得ない。一番ダメなのは私で、それでもえっちらおっちら、水の中で必死で手足を動かして、皆が待っているところまで泳いだ。はっきり言って、私は皆の足手まといで、限られた時間の中では、練習する時間が無くなってしまう。結局、私は皆の視線に耐え切れず、2回ほど通ってスイミングスクールをやめた。

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