人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

年末6時台の新幹線に乗ってみたら

駅構内の弁当店の熱気に困惑

 一年前から予約できることを知らなかったせいで、暮れに早朝の新幹線に乗る羽目になった。いったい誰が好き好んで12月30日に朝の6時台の列車に乗ろうと思うだろうか。誰も乗りたくはない。私にしたって、仕方がないから、その時間しか空いていないからと、嫌がる自分を「乗れるだけまだましでしょう」と宥めすかして納得させた。ネットでいつものように、いつも乗る時間の列車を予約しようと思ったら、満席の文字が付いていて、ボタンが押せない。知らなかった、いや、こんな大事なことを一体どうして知らずにいたのか、まったくお間抜けな奴だ。それにしても、列車予約のシステムというものは、予告もなく変わるので、油断も隙もあったもんじゃない。いつもと同じでは決してなく、移り変わりが激しすぎる。能天気な私はそれについて行くことなどできそうにないから、これからも慌てふためくことになるのだろうが。

 6時台の新幹線に乗るためには、最寄駅から始発の4時48分の電車に乗らなければならない。そうなると、当日の起床は4時で、いつもより1時間ほど早い。寝過ごしたら大変とICレコーダーの目覚ましを二つもかけてみるが、それでも不安なので、寝る前に水を大目に飲む。そうすれば、きっとトイレに起きるだろうから。予想通り自然現象で目覚めたが、なんと3時5分前でいくら何でも早すぎる。だが、また寝たら、完全にアウトだ。まだ眠いが布団を畳み、”旅立つ鳥跡を濁さず”のごとく、部屋を片付け始めた。海外旅行に行くときも必ず、部屋を綺麗にしてから行くので、これはいつもの儀式のようなものだ。この習慣は、若い頃に読んだ林真理子さんの小説「青山一丁目物語」かなんかで、(もしかしたら、本のタイトルが間違っているかもしれないが、)スタイリストの女性が仕事で海外に出かける時に必ず部屋を掃除する。もしも自分に何かあって、他人に部屋を見られてもいいようにとの考えからだった。私はその儀式を真似することにした。ある意味、身辺整理ともいえる行為だが、何のことはない、人目を気にしてと言うより自分のためなのだ。めんどくさがり屋で掃除が嫌いな私でも、部屋は綺麗な方が気分がいいに決まっている。ましてや、旅立つときは部屋が綺麗なのは新鮮な気持ちになれるし、また帰ってきたときもホッとできるものなのだから。

 朝の4時に、いや、あの日は3時に起きて部屋を片付けていたら、なんだか、帰省というよりも、これから海外に旅立つようなノリになって気分が高揚してきた。現実に乗るのが線路がどこまでも続く新幹線で、タイムマシンのごとく離陸する飛行機ではないのに。外に出ると、当然辺りは真っ暗で、歩いている人もいないのかと思ったら、駅に近づくにつれて、人が結構歩いていることに気付いた。こんな真夜中?に電車に乗ろうとしているのは私だけでなく、ちゃんと仲間はいたのだ。ホームに行くと、意外にも大勢の人が電車を待っていて、それに始発の電車が混んでいて、まるでラッシュアワーのような光景に二度驚いた。「この人たちはいったいこれから何をしに行くのだろう」とか「何を好き好んでこんな時間に電車に乗っているの?」などと、自分のことを棚に上げて呆れていた。キャリーケースを持っている人は目的がすぐにわかるが、そうでない人の方がたくさんいた。

 新幹線の乗り場に向かって歩いていたら、前方に何やら人だかりが見えた。駅弁売り場だった。駅弁はホームに行ってから買えばいいと思っていたが、売り場の賑わいに誘われて、まだ時間の余裕があるので、少し見ていくことにした。「こんな時間に駅弁売っているんだ!」と誰かが驚きの声を上げる。私も同感だ。とても朝の6時前とは思ええない風景だ。それにこんなにもたくさんの種類の駅弁が並んでいるのを見たのも初めてだ。幕の内はもちろん、牡蠣飯、鳥飯、有名な駅弁が勢揃いし、見ているだけで楽しいが、値段もそれなりに立派だ。因みに私の押しはアナゴ飯で、おかずがバラエティーに富んだ幕の内には正直飽きていた。ワクワクして買った後、食べる時によくよく見てみると、実はたいしたものが入っていなくてがっかりすることが多い。アナゴ飯を探したが、無かったのでぶり弁当を買った。だが、”ぶり弁当”というわりにはぶりの存在感が薄い。切り身が小さくて、味も良くない。あれでは、幕の内弁当にぶりの切り身がおまけに入っているようなものだ。どうしても騙された感がぬぐえない。1500円も払ったのに。まあ、仕方がないので早く忘れることにする。

 あ、そうだ。早く今年の年末の予約をしなくては、いけない、また忘れてしまうところだった。

mikonacolon