人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

「ちょっとお茶でも」がなくなった

今週のお題「変わった」

気軽にカフェでお茶しよう、が言えなくて

 この頃私はカフェに行かなくなった。ひとりではもちろん、誰かと一緒でも「ちょっとお茶を」の言葉が出てこない。コロナ前はあんなに気軽に、人と会えば、「お茶しない」だったのに、どうしたことなのか。要するに、物価高で、何でもかんでも値段が上がり、それはカフェの飲み物やサンドイッチ、パン類も例外ではない。以前は500円もあれば、カフェラテとサンドイッチを食べられたのに、今では夢物語になった。だいたいが、一番安いコーヒーチェーンのカフェラテにしても350円もするので、これまた一番安いパン類の260円のアンパンを買うと合計で600円を超える。このアンパンにしたって以前はたしか180円程度の物だったのに。それにだいたいが安いものから順に売れていくので、私が利用する頃は店のケースには値段が高い商品しか残っていない。例えば、370円もするちいっちゃなチーズケーキとかだが、これも以前はたしか290円程度のもので、目の錯覚かもしれないが、そのお姿は痩せているように見える。

 何が言いたいかと言うと、私は別にその店のコーヒーやパンが食べたくて、通っていたわけではなく、ただ自分の居場所を得られる場所代としてお金を払っていただけなのだ。正直言って、とうにその店の飲み物や食べ物には飽き飽きしていた。コロナ禍の3年で体質が180度変わってしまった私は、もうカフェは安心できて、至福を感じられる場所ではなくなった。まあ、それはそれで何も問題ないのだが、困るのは知人や友人とおしゃべりをする場所をどうするかだった。だが、その問題は意外にもあっさりと解決した。以前のように「立ち話では何だから、どこかでお茶しない」とは皆言わなくなったからだ。それに何もカフェでなくても、たいして飲みたくもないコーヒーを飲まなくても済む場所は探せばいくらであることに気づいた。

 例えば、ある韓国ドラマではデイトの待ち合わせ場所がコンビニだった。店の前に設置されたテーブルと椅子が置かれているスペースがあって、二人は店で買ったカップラーメンを食べながら語り合う。何もしゃれたレストランやカフェにこだわらなくても、それだけで十分なのだ。そんな場面を見ながら、ステレオタイプの設定しか思い浮かばない頭が固い私は、「これでいいの?」だなんて当惑し、不思議で仕方がない。

 また現在中日新聞に連載されている、朝井リョウさんの小説『生殖記』には主人公の尚成(しょうせい)くんが同期の女性から相談を持ちかけられる場面が出て来る。その相談とは彼と仲のいい同期の男性との結婚についてで、女性にとっては一生にかかわる大事な問題だったのだが、内心尚成君は上の空だ。本当のところはどうでもいいのだが、話だけは聞くというスタンスのようだ。結婚問題に関する相談だから当然何日にもわたって詳細に書かれているのだが、意外に思ったのは、その相談が行われている場所が夜の公園のベンチだということだった。そこで、また私は違和感を抱いたのだが、すぐに「別に公園のベンチでもいいのね」と妙に納得した。いや、むしろ、人で賑わっているカフェなんかよりも公園のベンチの方がよっぽど静かで、落ち着くのではないかとも思った。

 昨日の昼休みに久しぶりに外に出てみたら、大通りにある休憩スペースには人がちらほら座っていた。目と鼻の先にはドトールベローチェなどのチェーン店があるのにもかかわらず、少しの休憩ならここで十分といった感じだ。スマホをいじったり、ペットボトルの飲み物を飲んだり、物思いに耽ったりと皆自由に過ごしている。さすがに落ち着かないと思うのか、弁当を食べている人はいない。すぐ近くで400円の激安弁当が売っていて、行列ができていた。私も興味津々でどんな弁当か見てみたが、安いのにはそれなりの訳があるのだと聞いたことがあるので、買うのはやめておいた。

 いずれにせよ、「カフェでちょっとお茶でも」がなくなっても、それに代わる適当な場所はいくらでもあるのだと気付いた。物価高になって、急にお金の使い方に意味を持たせたくなってきた、少なくとも私は。自分にとっての価値観に見合ったお金の使い方をしたくなってきた。

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