人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

捨てられない女のコレクション

今週のお題「わたしのコレクション」

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集めないことに決めた私が心惹かれるわけは

 考えてみると、子供の頃はなぜあんなにろくでもない物?ばかり熱に浮かされるように集めていたのだろうか。ろくでもない物と一括りに言っても、当時としてはキラキラして心がウキウキするもので素晴らしい宝物だったはず。それが大人になって、もう心がすれっからしになってしまって、たいして感動しなくなっただけのことなのだ。椅子から転げ落ちそうになるくらいの事態でなければ、それくらいのガツーンとした衝撃でもなければ、心震える感動というものはもう味わえないのかもしれない。ふ~ん、それがどうかしたの?だなんて、無味乾燥な言葉しか出て来なくなった大人になり下がってしまった。だからこそ、本当に洗練された、美しい物に出会えた時は、その場を立ち去ることはできない。時間を忘れて見つめて、眺めて幸せな時間を過ごしているとあっという間に日が陰ってしまう。

 今ではもうそんな美しい物を手に入れて自分の物にしようなどとは思わなくなった。というよりもそれは手に入れることが不可能なことが多い。そうでなくても、何か自分のお気に入りの物を買って家に持ち帰って、飾るという発想からして皆無なのだ。何もわざわざ手に入れなくても、その場所に行けばいつでも眺めることができると考えるからだ。そんな風に考えるようになったのは、おそらく私が片付けられない女だからなのだろう。整理整頓が苦手、掃除がめんどくさい、もちろん頭の中もぐちゃぐちゃで日常的に悶々としているからなのだ。ドラマに出て来るような、綺麗に整頓された部屋の中にお気に入りの物たちを飾ることができれば最高なのだが。現実は難しい。

 私の周りには片づけられなくても、そんなことは気にせず、懲りずに物を集めまくっている人がいる。その人は義姉のミチコさんだ。実家は2階建ての一軒家で、女一人で住むには十分な広さがある。なのにいつ行ってもどこの部屋も混雑している。どこの部屋もと言っても、私が知っているのは台所とリビングと仏壇がある座敷だけだ。想像するには、2階はもはや物に占拠されて、立ち入り不能な地帯で、そこに唯一足を踏み入れるのは洗濯物を干しにベランダに出るときだけだ。以前何かの話で2階はもはやお気に入りの洋服で溢れかえっていて、立ち入り不能だと聞いたことがあった。65歳で辞めるまでミチコさんは洋装店で働いていたので、店員割引きで洋服を買うのが趣味だったからだ。おしゃれで社交的なミチコさんにはうってつけの仕事だった。その洋服もターゲットは40代以上の中高年の女性だったので、物もいいものだし、当然価格も決して安いものではなかった。だから太ってもう着られなくなったからと言って、簡単に捨ててしまえるはずもなかった。元々ミチコさんには、要らなくなったものを捨てるという選択肢はないのだから。

 昔の家なので、座敷には床の間があったはずなのだが、今はその面影もない。昔は季節ごとに掛け軸が取り換えられていたし、生け花の花器が置かれていた。現在では床の間はミチコさんの収集品置き場となっていた。陶器の人形やら様々な形のオブジェが所狭しと並んでいる。だが一つ一つをよく眺めてみると、なかなかよくできていて感心する。いつの間にか楽しくなってしまうから不思議だ。床の間だけではスペースが足りず、畳の上にも収集品で溢れているのだが、ガラクタ?とはとても思えない。月に一度、寺の住職がお経をあげに来るのだが、「いつ見てもこのコレクションは凄いね」と 笑う。それが誉め言葉かどうかは分からないが、嫌味ではなさそうだ。

 なんだか高そうに見えた人形を「これって高いの?」と何気なく聞いてみたことがあった。するとミチコさん曰く、「それはディスカウントショップで300円だったよ」。値段を聞いて仰天した。そう言えば、食器のセンスも抜群で、ブルーと白のウエッジウッドのように見えるカップも驚くほど安く手に入れていた。世に言う掘り出し物を見つけるのが上手なのだ。いつも思うのだが、シンプルな食器しか使っていない私にとっては実家は何でもありのワンダーランドだ。湯のみ、お茶椀、コーヒーを飲むときのカップに至るまで洗練されている、おしゃれな器に出会えるからだ。

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