人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

電車で暴力に遭遇したら

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もし自分がその場に居たら、何ができただろうか

 先日の日経新聞のコラム「春秋」で栃木で起きた電車内の暴力事件がとりあげられていた。「電車で喫煙注意され 高校生へ障害」。複数紙がこんな見出しで事件を伝えていた。車内で加熱式タバコを吸っていた男が、やめるよう注意した17歳の男子に投げる蹴るの暴行を加えた。私もこのニュースは夕方の報道番組で知った。今どきこんな正義感の強い若者がいるのかと驚くと同時に、気の毒なことになってしまって痛ましい限りだ。君子危うきに近寄らず"というように、正義を主張するのは素晴らしいのだが、今一歩立ち止まって考えて欲しかったと残念に思う。テレビのアナウンサーも言っていたが、優先席に寝転がってタバコを吸うような男には規則を守るように注意しても無駄なのではないか。物事の道理が、まともな話が通じるような相手ではないのだから。事件の様子からして、相手は力も強く腕に覚えのある、喧嘩慣れしている男性だったようだ。

 何も見て見ぬふりをするのが最善だったというつもりはない。規則が守られる社会が理想の社会なのだが、昔に比べるとなんだか世知辛く、皆がイライラしているように見える。マスクで隠れているので分からないが、皆陰ではストレスを溜めているのだ。悲しい事だが、そんな状況にあるのは事実だ。一緒に居た友達の3人の高校生は友人を助けようと立ち向かったが、止められなかったという。コラムの書き手が嘆いているのは、他の乗客が止めようとしなかったことだ。平然と、いや、そんなわけもなく、目の前で行われている暴力を震えながらみてるしかなかったのだろう。もし誰か勇敢でなくても、正義感もなくてもいいから、「絶対自分なら助けられる」という自信がある人がいたなら、悲惨な結末は避けられたに違いない。コラムの書き手も、もし自分だっら・・・・と後ろめたさが消えないという。

 相手はたった一人なのだから皆で立ち向かえば、もう少しどうにかなったのではないか。もしあの時、ひとりの高校生が加熱タバコを吸うのをやめるように注意した時、周りの皆も同様に「やめてください」と抗議したらどうだろうかと考える。ひとりより二人、数は多いほうがいい。ただ、正直言って、他人に注意することすら勇気がいる。ましてや恐ろしい相手に向かっていくなんてとんでもないことだ。これが現実でなくて、映画やドラマならそんなことはたやすくできる。見ているこちらもスカッとするし、人々の連帯する姿に胸が熱くなる。

 考えてみると、私たちは電車の中で目立たないように身を潜めている。自分にどうか予期せぬ災難が降りかかりませんようにと願っている。自分の領域を侵されたくないし、また他人にも関わりたくないのだ。だから人間としては絶対助けなければならない時に、見て見ぬふりができてしまう。勇気を出すことができなかった、あの場に居た人達は家に帰ってからも嫌な汗をかいていると思う。

 昔、電車の中で刃物を振り回した男に立ち向かった男性がいた。その人は正義感が強く普段は国際機関に勤めていて、一時帰国したときに偶然あの電車に乗り合わせた。皆逃げ惑うばかりで、誰一人暴漢に反抗できなかった。でも彼は違って、刃物を持った男を止めようとした。でも残念なことに男に胸を刺されて亡くなってしまった。

 当時その話が職場で話題になった。同僚の男性のひとりがこんなことを言った。「正義感だけじゃあどうにもならないよ。助けようとして殺されたんじゃシャレにもならない」。そして、「俺なら助けられるのになあ。俺だったらそんなバカな奴は容赦しない」と怒りが収まらないようだった。彼は高校時代に相当喧嘩をしたらしく、腕に覚えがあるらしい。元々力が強い方だったが、農家だった家の手伝いをして、いつも重いものを持っていた。そしたら自然と力が強くなって、喧嘩をしても負けなくなった。それに彼には相手の動きがハッキリと見える。だからナイフを振り回されても全然怖くないのだと言う。

 彼の話を思い出して考えたのだが、たとえ非常ボタンを押して、乗務員に伝えたとしても、それが果たして解決策になるだろうか。やはり、警察官、それも頑強な人でなければ暴漢には対抗できないのではないかとつくづく思う。

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