人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

不器用は意外と使える?

そんな考え方もありかと、目から鱗

 ある日の朝日新聞の夕刊に『不器用は意外と使える』というエッセイが載っていた。筆者は芥川賞作家の津村記久子さんで、私がそれまで信じていた常識を覆すようなことが書かれていた。津村さんは自分のことを幼稚園の頃から不器用で、散々辛い目にも合ってきた。それなのになぜ現在では、元凶となったその”不器用さ”が役に立つのだろうか。プラごみを洗うのを日課としているようで、立派に作家として自立しているにもかかわらず、毎日やらなければならない家事で忙しい。他人にはそんなことに時間を取られているなんて信じられないかもしれないが、本人は楽しんでやっている。だからプラごみを洗うのは断じて時間の無駄ではなく、時間泥棒だなんてありえない。

 文中の『一見不自由そうに見える”不器用で時間がない”だけれども、逆に”あれもこれもできていないといけない”からは自由になれることに気が付いた』という記述には正直戸惑った。だが、『なにしろ不器用だから、二つぐらいのことしかできなくて当然だ』には深く頷いてしまった。そこで、役にも立たないと思っていた”不器用”の出番がやってきた。つまりネガティブなイメージしかない、このロクでもない性質を大いに役立てる機会が訪れたのだ。

 津村さんはどうやって”不器用”を使える言葉に変えたかと言うと、『なにしろ不器用なもんで・・・」と言い訳をしてその場を取り繕うことにした。そんなことを言われた相手は最後まで聞かなくても、呆れた顔をして「まあ、そういうことならしようがないか」と諦めてくれると言うのだ。『化粧が適当で靴下が破れていても、”不器用で時間がないんで仕方ないんですね”で終わらせる』というのだから仰天した。敢えて他人にはあまり言いたくない自分の恥ずかしいことを堂々と言い放って開き直る、そんなことができることにまずは目から鱗だ。信じて疑わなかった常識をいとも簡単に覆された気分になった。そんなことをして大丈夫なのだろうか、変な奴だと思われないだろうかというような、他人にどう思われるかばかリ気にしている私には青天の霹靂ともいえる言動に思える。

 特筆すべきは津村さんがエッセイの中でこうも言っていることだ。『”世の中ではこういうことが流行っていて主流だからちゃんと時間を捻出して追いかけないとだよ”というような雰囲気を各媒体から感じても、興味がないことからは、”いやープラごみを洗わないといけないんで”で逃げる』。要するに、世間の同調圧力から距離を置いて生きられるし、そのくだらない?言い訳に皆呆れ、怒る気も失せて許してくれると言いたいのだろうか。その言い訳が立派で正論なら問題になるかもしれないが、不器用に端を発しているのだから誰も相手にしないのかもしれない。

 となると不器用は役に立つし、またとない武器になるのではないだろうか。不器用であることが生きていく上で役に立つだなんて、夢にも思わなかった。考えてみると、私も子供の頃から不器用だったが、大人になれば努力すれば少しはマシになると淡い希望を抱いていた。だが、何のことはない、今でも十分不器用で、残念ながら子供の頃からたいして進歩していない。思えば、小学校一年生の時に授業で牛乳パックを使って工作をしたことがあった。ハサミで牛乳パックを切って形を作るのだが、ハサミが上手く使えなくて冷や汗をかいた。気になってふと隣を見たら、その子はスイスイと手慣れた手つきでハサミを操り、あっという間に切り終わった。あのとき私は自分と他人との違いを思い知らされた気がする。

 不器用は損な役回りに決まっているという私の固定観念を覆してくれた津村さんはやっぱり面白い人だ。普通の人が見えない視点から物事を見ているのだと感心するし、だから津村さんの小説が大好きだ。

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