人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

もしもテレビが壊れたら

それはそれは、寂しいことになると思いきや・・・

 朝日新聞の朝刊の土曜日に連載されている『オトナになった女子たちへ』で、漫画家の伊藤理佐さんが書いていた、家のテレビが壊れたと。それで、当然毎日見ていた朝ドラが見られないのだが、そう断わっているのに、行く先々で皆朝ドラの話を振って来るらしい。「見られない」って言ってるのに、ご近所の方も、友だちも、行きつけの美容師さんも誰も彼もが「朝ドラ」に話を持って行こうとするのだ。朝ドラって、天気予報のごとく、挨拶代わりのように、そんなに皆の共通の関心事なのだということに仰天する。日本国民なら見なくちゃとか、見なくてどうするのなんていう”同調圧力”を感じてしまうのは私だけだろうか。世間話の話題に困ったら、朝ドラの話を振るのが無難なようで、でも当方のような労働者は毎日15分の朝ドラを見る時間が無い。いや、そうではなくて、さっぱり関心がないから、見ないだけなのだが。それに、実際見なくても、新聞やテレビ、ネットなどが、今どんな展開になっているのか、ちゃんと教えてくれるのだから余計に見なくていいかとなる。朝ドラは、常に世間の注目を浴びているようなのだ。

 実家の義姉のミチコさんも、朝ドラは必ず見ているようで、庭の草花に水をやり手入れをすると同様に一日のルーティンに組み込まれている。私が「面白いの?」と聞くと、暇だし、長年の習慣だからと答えるだけで、たいして理由もないらしいがなんとなくテレビをつけて見てしまうのだ。要するに、テレビでも付けていないと、ひとり暮らしでは、いや大勢で暮らしていても、何か音がないと人は寂しいと感じる生きものらしい。

 さて、テレビが壊れた伊藤さん宅はどうなったかと言うと、テレビが壊れて寂しいという様子は微塵もなくて、家族3人がそれぞれ自由に楽しんでいた。旦那さんの漫画家、吉田戦車さんは料理動画に、娘さんは自分ちに猫がいるのに,他所の可愛い猫さん動画を見るのに没頭していた。そして伊藤さんまでもが、BTSの動画に嵌っていた。テレビが壊れてもたいして困らないことに目から鱗だった。それに、「あの番組見なきゃ」とか「録画しなきゃ」とかという縛りから解放され、見逃し配信とかをもう気にしなくていい、ある意味自由になれたと感じるという。身近に若者はいないから実態は分からないが、今の若い人たちはテレビはあまり見ないそうで、スマホで十分間に合っていると噂に聞いている。実を言うと、私もあまりテレビは見ないので、突然テレビが壊れたとしても、慌てることはないと思うが、過去にテレビでもあったらなあとつくづく思ったことは多々あった。

 例えば、私が海外旅行に行き始めた頃の、海外のホテルには部屋にテレビがなかった。今にして思えば、なぜテレビがなかったのか不思議だが、当時はそう言うものなのだくらいにしか思わなかっった。それと言うのも、テレビがないというだけで、(もちろんエアコンもないが)部屋代がわずか数千円で、しかも広い部屋に泊まれたので、文句のつけようがなかったのだ。それに夏休みに行ったイタリアでは、おそらく百年ぐらいは経っているだろうと思われる大理石で作られたホテルは、中に入ると噓のように涼しかった。

 テレビくらい、無くても全然平気のはずだったが、海外旅行初心者である私はナイトライフというものには無縁だった。要するに、ガイドブックの忠告に従って、「夜は出かけるようなことはせず、ホテルの部屋でおとなしくしていた」のだった。となると、暇を持て余し、昔聞いた流行歌のごとく「この長い夜をどうして過ごしましょう」と困ったことになった。もちろん、読みたい本もあるにはあったが、読書というのは意外に疲れるものだ。もう少し、気楽に視覚だけで楽しめる娯楽といったら、テレビしかない。パリのホテルではレセプションの脇にしかテレビがなかったので、そこにテレビを見に行った記憶がある。

 そのうちホテルの部屋にもブラウン管のテレビがはいるようになり、それと同時にホテル代も高くなった。今では通常のいくつかのチャンネルのみならず、衛星放送が主流になって、日本で見られないようなドラマも楽しめるようになった。正直言って、外国で夜に出かけるのはあまり好きではないので、部屋にあるテレビは私にとっては必須の存在だ。旅先では、夜中でもテレビを付けっ放しにして、非日常を満喫している。

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