人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

鏡を洗う

今週のお題「最近洗ったもの」

埃だらけの姿見、急に洗いたくなった

 最近は灼熱地獄のような毎日で、暑い、暑いと言っているだけで、時が過ぎていく。洗濯物をベランダに干したら、一瞬にして乾いてしまうかと思われるほどの太陽の熱で火傷しそうになる。今なら何でも洗える、洗いたくても洗うのに躊躇してしまうものだって、洗えるかもとふと思った。埃だらけで、でも水でジャブジャブと洗うわけにはいかないもの、それは姿見で、全身が映る鏡のことだ。もっともそれは影が薄くて、まだまだ現役だが、たいして気にもかけられない放りっぱなし状態だった。毎朝使うことは使うが、一切手入れもせず、汚れたまま使っていた。まあ、実際はそれでも鏡としての役割を立派に果たしていた。何もどこに出しても恥ずかしくないようにピカピカに磨き上げなくてもよかったのだ。私だけがこそっと使えるだけの綺麗さがあればよかった。

 普段は見放している姿見も大掃除の時だけは、少しは埃を取ってあげなきゃと同情して、掃除をしてあげる。だが、悲しいかな、洗剤をつけた雑巾で拭いただけでは綺麗にはならない。当たり前のことだが、まさかゴシゴシ洗うわけにもいかない。なぜならすぐに乾く保証がどこにもないのだから。でも、今のような太陽の無限の熱量を感じると、この熱をなんとか有効利用できないものかと頭が空っぽの私でも考えてしまう。それで目下のところは姿見を洗おうと思いついた。

 余談だが、子供の頃うちの家の屋根には電気温水器が付いていて、太陽の熱で沸かしたお湯で風呂に入っていた。なぜ、突然こんなことを思いだしたかと言うと、最近新聞の投書で「もっと電気温水器の普及を望む」との声があったからだ。太陽のエネルギーを最大限に利用するという点で理にかなった意見だ。実際にソーラーパネルで発電する電気だけで暮らしている人もいる時代なのだから。

 さて、姿見を洗うのは、”今でしょう!”とばかりに張り切って、ベランダに姿見を移動させた。今まで積もり積もった埃と汚れを洗い流すときがとうとうやって来た。まず鏡全体に水をかけて濡らし、そこへ洗剤を含ませたスポンジでゴシゴシとやる。擦る度にキュッキュッ、なんだかいかにも汚れが落ちそうな音がする。長年の汚れがこびり付いて、少しでも落とせたらいいと軽い気持ちだった。だが、予想以上に鏡は美しく変身した。その日の最高気温は34度で、鏡が元通りに乾くのには最高のコンディションだった。

 そもそも、あの姿見を買ったのは一人暮らしを始める時だった。真っ先にテーブルとベッド、それに姿見を買ったのには理由があった。当時私はある本を読んでとても衝撃を受けていた。その本の著者は青柳友子さんという作家で、失恋して自殺未遂をした後家を出て自活の道を選んだ話が綴られていた。その生き方も普通の人とは一線を画していて驚かされるが、何が言いたいかというと自立のすすめに他ならない。そのエッセイの中で、青柳さんは女性ならぜひ姿見を買って、体型の管理をするべきだと書いていた。極論を言えば、裸で鏡の前に立っても恥ずかしくない身体が理想なのだ。

 ちょうどその頃の私はダイエットの呪縛から抜け出したばかりだった。だからこそ、もう絶対に太りたくないので、自ら確認するための姿見を買うことにした。高校生の頃から少しずつ太りだし、食べても食べても太れないと嘆くクラスメートを嫉妬の目で見ていた。ストレスを食べ物で発散していたから無理もないのだが、それしかないと固く信じていたからお目出たい。そうではないと気付くまでに膨大な時間が掛かったが、人はそれほど愚かな生き物なのだ、私に限ってのことかもしれないが。正直言って、今では鏡の前に立って体型チェックなんて、もう何万年もやっていない。

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