人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

何が食べたい?

そう聞かれたら、何と答えたらベストなのか?

 先日の新聞の土曜特番に『なやみのとびら』という人生相談のページがあった。回答者は俳優の平岳大さんで、相談者のお悩みの内容は、妻が食事を作るにあたり、「何が食べたい?」と聞かれることがあります。そんなときベストな答えはあるのでしょうかというものだ。だいたいが、「世の男性のほとんどが、この質問をされると”何でもいいよ”と優柔不断な答えしか出てこないのではないでしょうか」と平さんは指摘する。そして、「まず妻がこの質問をする状況を考えてみましょう」と誘導し、その場合はおそらく週末か休日に違いない。だとしたら、そんなときは妻の「何が食べたい?」という発言の真意を読み取る必要があるのではないか。まさか、妻は本当の意味で何か特定の料理の名前を聞いているなどと思ってはいけないのである!?と発言の裏の裏まで読み解くのだ。

 これには女である料理の作り手である私は仰天した。これってフェミニストの代表みたいな平さん流の考え方なのだろうか。かなりステレオタイプな思考法とは一線を画した、視点の違う見方が新鮮だ。本音を言うと、料理を作る人の立場からしたら「何でもいい」と言うのはほとほと困り果てる一番聞きたくない答えなのだ。何でもいいなら、本当になんでもいいわけで、適当でいいのね、となる。適当でよければ、手間のかからない、簡単なできるだけラクなやつとなり、行きつくところはインスタントやレトルトとなり果てる。もっともそれのストックがなければ、あっという間にできるいための物かなんかで終わりである。

 ある日の新聞の歌壇のページに載っていた「今晩はおたんこなすのしぎやきよなんて言ってなきゃやってられない」という歌。う~ん、わかる、実にわかると思わず頷いてしまった。ちなみに「しぎやき」はなすのみそ炒めでいとも簡単にできるおかずである。この歌の作者の「何が食べたい?」に込められた感情はどんな景色なのだろうか、と想像してみる。その真意はどうなのか、あまり追求したくない気がする。

 「何でもいいよ」は作り手のやる気をそいでしまう言葉でもある。だが、一方でホッとする言葉でもある。考えてみると、「何が食べたい?」などと聞くときは、たぶん作り手が何を作ろうか迷っているか、あるいは自分のレパートリーが少なく、いつもワンパターンなことに少しうんざりしているのだろう。それとも少し疲れていて、何も作りたくない気持ちでいっぱいのときなのだ。

 そこで平さんの話に戻ると、平さんが素晴らしいのは、ちゃんと妻の真意を察していることに尽きる。「毎日食事を作っている妻の身になって考えると、」と気配りと感謝を忘れずに、「今からできれば買い物に行かずに、時間も手間もかけず簡単なもので済ませたいわ」と言う本心を見抜いてしまうところだ。これにはさすが!と称賛するしかない。世のなかの男性にこれほどまでの洞察力でもって妻の真意を見通せる人などいやしない。だから平さんが薦めるベストな答えは「外に食べに行こうか」なのだ。

 だが、外に食べに行くことは経済的に少し負担になる。そんなときはお財布にやさしくて満足できる”できるだけ安めの店”がいいが、間違っても、「じゃあ、どこにいきたい?」などと聞いてはいけないと念を押す。なぜなら、そのことで妻が自責の念に囚われないためだ。たぶん妻の頭の中では外に食べに行ったら、最低でもいくらぐらいかかるかが計算中だろうから、「私が我慢して家で作れば余計なお金を使わなくてもいいのに」などという葛藤があるからだと言う。平さんはどうしてこんなに深読みできる人なのだろう、できれば世の男性たちに平さんの”爪の垢を煎じて飲ませたい”と本気で思った。そしたら、最後に「僕は実際は家庭ではそんなに思慮深い男ではない」と謙遜することを忘れなかった。現在平さんは海外ドラマの撮影のために半年間バンクーバーに単身赴任中で、自炊の身の上で毎日ご飯を作るのがだどれだけ大変か身にしみてわかるのだとか。でも、面倒な時はついついウーバーイーツを頼んでしまうそうだ。

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