人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

何気ない言葉に気持ちが露見

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 予想外の反応にうろたえる

 言葉が自分の意図とは関係なく勝手に歩き出してしまう、そんな体験をしました。それは以前叔母の家にみんなで集まるときに、私が何気なく電話で言った「あの人も来るの?」の一言が原因でした。気軽に何でも話せる叔母に「あの人は来たらダメなの?」などと言われてしまったのです。そう言われた瞬間、そんなこと思っていないのに、どうしてそんなことを言うの、と内心思いました。正直、「それはないでしょう、ひどいじゃない」ともうちょっとのところで怒りをぶつけそうになりました。でも、そんなネガティブな気持ちをうち消して、「そんなことはないけど」と明るく切り替えたので、その後は何の問題も起きませんでした。

 その後よく考えてみたら、あの時は「あの人は来るの?」と言えば相手もあんなことは言わずに済んだのです。たかが、助詞の「は」と「も」の些細な違いです、ですが相手の感じ方はまるっきり違ってしまう、そこが言葉の恐ろしいところです。だから、できるだけ相手に誤解を与えるような、言葉の使い方はしない方が賢明だと思うのです。何より言い訳したり、その場を取り繕うのがもうめんどくさいではありませんか。一瞬でも自分がイラッとするのが嫌なのです。それに相手の言葉の捉え方が少し歪んでいるのではないかとロクでもないことを考えて、相手を非難し、最悪ケンカになってしまうのは避けたいのです。

あの人の変わりようにショックを受ける

  「あの人」とはもう一人の叔母のことで、そもそも私の発言は彼女に対する負の感情が言葉に出てしまった結果なのかもしれません。考えてみれば、助詞の「も」は何かのおまけのような意味で、仲間外れを意味する言葉なのかもしれません。きっと昔とは全く別人のような彼女を疎ましく思う感情が自然と姿を現したのです。こっそり心の中にあった感情を相手に見透かされて、面食らった、そんな感じです。彼女は昔から義理堅い人だったはず。人から何かを貰ったら必ず返礼をするとか、自分の弟がちょっと家に立ち寄ったら何か買って来て持たせる、そんな心配りをする人だったはず。それなのに、今の彼女は家に迎えに来てもらい、泊まらせてもらってお土産までもらって平気で帰って行く。叔母の家のご飯が美味しいと言うので「じゃあ、少しだけど持って行って」と叔母が気を使ってお米を持たせてあげる、そんな光景を見ていると「どうしちゃったの?」と惑うばかりで切なくなってしまうのです。

あの人は孫のために生きている

 あの電話の時は、ちょうど足が痛いらしく、「迷惑かけるから今回は行かない」と断るようなそぶりでした。だから、彼女はもう来ないのだと決めつけて、仲間から排除するような「あの人も来るの?」が飛び出したわけなのです。それで、社交的で心優しい叔母から「来てはダメなの?」と非難するようなことを言われてしまったのです。「あの人も来れば、いい気分転換ができるのに」と断られても諦める気にはならないようです。その点でもう私と叔母との考え方の違いが明白なのです。だから私の言い方は叔母にとってはカチンと来たに違いありません。

 どう見ても「あの人」は今ではもう周りをたいして気にせず、自分だけの世界に生きているようです。つまりもう80歳を過ぎて、世間でいえば後期高齢者になったわけです。一緒に住む娘や孫には相手にされないのですが、それでも「○○ちゃん(孫のこと)のために生きているのだと話してくれたことがあります。ある時、自分の見たい番組があったそうです。でもテレビが家に一つしかない。孫に見せてくれるように頼んだら「お祖母ちゃんは私たちにこの家を出ていけと言うの?」と、支離滅裂なことを言われてしまった。その時思ったそうです、孫娘は何かに追い詰められているらしい、こんなことを言うなんて可哀そ過ぎるのだと。

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