人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

バンパイア・デバイス

これからどうなる?我が家の電気代

 バンパイア・デバイスって何だろう?とある日の夕刊を見ていて思った。バンパイアは文字通り吸血鬼のこと、ではデバイスはと言うと機械とか機器のことだとだいたいの予想は付く。つまり、血を吸う物体で、ここでの「血」は電気だ。吸血鬼が人の血を吸い取るようにその機器を使っていない待機モードの状態でも大量の電気を吸い取ってしまう機器、それをバンパイア・デバイスと呼ぶそうだ。

 家庭の中を見回すと、テレビ、ビデオ、エアコン等、待機モードになっている家電を数え上げればきりがない。24時間いつでも対応できるように、やる気満々で私たちの命令を今か今かと待っていてくれるので、実にありがたい。だが、その一方で、そんなにたくさんの家電が指示待ち体勢でいてくれるのだから、電気代も馬鹿にならないのではないか。などと一瞬考えてはみるが、所詮その場限りの思いつきで、すぐにどうでもよくなるのがおちなのだ。昨今は電気代がどんどん上がっていて、仕方ないかと知らんぷりを決め込もうと思ったが、来年はさらにその上げ幅が加速度を増すとの予測に鈍感な私も何かせねばと危機感を抱いている。

 だが、果たしてすべてのプラグを抜けるかどうかと言うと、甚だ自信がない、というか現実味がないのだ。テレビを目覚まし代わりにしているし、ビデオの録画予約もしているし、エアコンに至っては下手にプラグを抜いたらいざ使おうという時に壊れますよと誰も彼もが指摘する。となると、実際にプラグを抜けるのは、洗濯機、電子レンジ、パソコン、スマホやICレコーダーの充電器ぐらいなものだ。炊飯器は予約炊飯になっているから、ほぼ24時間体制で電気を使っている。これでは待機電力を何とかゼロに近づけるなんてことは不可能に近い。電気代を少しでも減らしたいのがやまやまだが、現実の生活がそれを許さないのだ。いや、というよりも当方にとって甚だ不便極まりないのだ。便利な生活が当たり前で、その快適さにどっぷりつかってしまった当方には耐えられないのだ。

 となると、待機電力を減らすよりも、懐は痛むがさらなる出費を受け入れるしか方法がないのではなかろうか。だが、バンパイア・デバイスというタイトルの『令和なコトバ』というコラムを読んで仰天した。待機電力を実際に計測してみた結果はというと、意外にもそれほど電力を消費していなかったのだ。例えば、2018製の50型テレビの場合、待機電力は24時間で0.07円というから、その安さに目から鱗だ。家事節約アドバイザーの矢野菊野さんによると、「資源エネルギー庁の調査で家庭の消費電力のうち5%以上が待機電力と言われたのは10年前のこと。今はテレビなども待機電力をあまり使わない商品が主流です」ということだ。

 とはいえ、当方の家電はどれもこれも10年以上前に買ったものだ。最新家電のようには省エネできているとはとても思えない。そもそもが電気を大量に使う生活を改めることが求められているのであって、家電を新しくすればすべて解決するというようなそんな安易な問題ではないのは明かだ。電気を大量に使う、いやどうしても使わなければならないのは暖房で、まさにこれからの季節は悩ましい。寒いのは誰だって嫌だが、月末に電気の請求書を見るのが恐ろしくなるのだ。なんとか電気代の安いホットカーペットとあったか毛布で冬をやり過ごそうと頑張るのだが、いかんせん気温の急降下には太刀打ちできない。室温が零度に限りなく近づくと、震え上がって、エアコンのリモコンを探してしまう。

 今年もいつの間にか11月の中旬にさしかかり、季節のわりには暖かい日が多くて助かっている。陽だまりの中に居るような気分だが、12月に入れば否応なく、突然の嵐のごとく寒さが襲ってくるのは間違いない。そんなときは決まって、覚悟はしていたはずなのに慌てふためき悶々としてしまうのだ。身に染みるさ寒さを受け入れることできなくて、心の中に嵐が吹き荒れる。

mikonacolon

オトナになった女子たちへ

ちょっと体重を落とそうと・・・

  先日の益田ミリさんの朝日新聞の連載『オトナになった女子たちへ』は「ちょっと体重を落とそうと、食事量を普段の8割にして・・・」で始まった。なるほど、秋は読書の秋で夜長を楽しむのには最適な季節だが、一方で食欲も旺盛になるから頭が痛い。夏とちがって、洋服で体型は隠せるが、シルエットは嘘をつかない。普段あまりスタイルを気にしないようにしている私でも、自分の目の前を行く人が、細かったり、いい感じの洋服を着ていたりすると「なんてカッコいいんだろう」と思ってしまうのだ。先日もブラウスとロングスカートの若い女性を交差点で見かけて、ついついその人の姿が見えなくなるまで、目で追ってしまった。どうやら後ろ姿に一目ぼれしてしまったようだ。正直言うと、写真に撮りたいような衝動に駆られることもあるが、いやいや、まさかそんなことはできない。自分の目に焼き付けて、それで終わりで、ひとりでほくそ笑んで楽しんでいる。けっしてストーカーなどではないと自負している。

 一瞬でカッコイイと思える対象はやはり背が低くてはダメで、女性なら170cmくらいはなくてはならない。それくらい背があると、今流行りのロング丈のコートやワンピースが似合うから羨ましい。明らかにない物ねだりだが、親しい人にそういう体型の人がいないのだから、余計に憧れてしまうのだ。現実は体重は努力して落とせるかもしれないが、背の低さだけはどうしようもない。しかも当方は若い頃と比べて、背が1cmほど縮んでしまった。こうなると、もう諦めるしかなくて、とりあえず今の自分を維持できればいいかと思っている。今持っている洋服が着られれば良しとすることにした。

 だいたいが、自分の身体が太ったか、痩せたかなんて、毎日の着替えの時にわかってしまう。それに全身を鏡でチェックすれば、一目瞭然なのだ。体重計に乗る必要などないので、それは全く出番がなくなって、洗面台の下で埃を被っている。思えば、昔ダイェットに精を出していた頃、毎日何度も体重計に乗って、表示される数字に馬鹿みたいに一喜一憂していた。信じられないほどに数字に翻弄されていたわけだが、たかが体重、されど体重で、そう簡単に割り切れないのが悩ましいところだ。

 ミリさんの話に戻ると、食べる量を減らしたツケは早くも3日目に出てしまった。お腹がペコペコになって、気分転換に外に出た。空腹でフラフラするので、「やはり、なんか食べよう」となりパン屋で大好きなツナサンドを買い、公園のベンチでコーヒーを飲みながら食べた。こんな時の食べ物は人生において一番美味しいと言っても過言ではない。結局ミリさんは食事制限はやめることにして、「よーく噛んで食べることにした」というのだが、案外これが難しいのだ。ミリさんの試行錯誤はこれからも続きそうな予感がする。

 その後、エッセイの話題はダイエットから、自身の漫画のことに移った。「小説新潮」に連載していた漫画が最終回を迎えたそうで、主人公の名前はツユクサナツコだった。夏になると草むらのあちらこちらに咲いている雑草だが、私はあの紫の可愛い花が結構好きだった。できれば儚(はかな)い名前がいいと植物図鑑で調べたら、朝咲いて昼には萎む夏の花だとわかって、ヒロインの名前に使うことにした。実は私は以前この漫画を読んだことがあった。どこでかというと、それはいつも行くスーパーのコピー機の側にある雑誌コーナーだった。あの頃はまだ雑誌が好きなだけ自由に読めた時代だったので、情報収集も兼ねて立ち読みしていた。偶然ミリさんの名前を見つけて、「あれ、ここにも連載を持っていたのか」と少しびっくりした覚えがある。

 その時の主人公がたしかツユクサナツコで、何とも珍しい名前だった。そのナツコがまた名前の通り、前には出ない、日陰の存在で自分から目立つような行動をしない。お日様はナツコには燦燦と当たらないのかもしれないが、それでもナツコはひっそりと生きていて不幸ではない。ナツコは小さな幸せで十分満足し、欲張ることをしないで淡々と毎日を生きている。私の中ではそんな話だったと記憶している。

mikonacolon

 

歯科治療費が高額なのに仰天

 

日本人でよかった!と一瞬思ってしまった

 先日、新聞に載っている海外リポート『世界の街角』を読んでいて仰天してしまった。それはワシントンに駐在している特派員からの報告で、歯科治療の話だった。なんでもその人はお昼にいつもの店で買ってきたフランスパンにかぶりついていた。そしたらなんとバキッという音がしたそうだ。嫌な予感がしたが、それは見事に的中し、前歯が折れた。慌てて、近くの歯科医院に駆け込んで、セメントでくっつけてもらった。それに何と4万4千円もかかった。

 ただ食事をしていただけなのに前歯が折れたことにもびっくりしたが、歯科治療費が馬鹿高いのにも二度びっくりした。どこかにひどくぶつけたわけでもないのに、なぜそんな簡単に!?歯が折れてしまうのか。その原因として思い当たるのは、おそらくこちらの食事はなんでもかぶりつくものが多いからだ。例えば、ステーキ、骨付きチキン、ピザなど、想像以上に歯に負担がかかっていたらしい。もちろん米国に赴任する前に歯科治療は日本で済ませたはずだった。「米国の歯科治療は高いから行かないほうがいいよ」という話は噂に聞いていたからだ。なのに現実は一番「恐れていたことが起きてしまった」のだ。歯が折れて痛い目に、さらに「懐も痛くて」二重の痛みを経験した。まさに”泣きっ面にハチ”とはこのことだ。

 だがそれだけでは済まなかった。歯医者に行ったら、無いはずの虫歯まで見つかり、おまけに神経を取る治療が必要だという。米国では普通の歯医者は神経の治療はしない!?ので専門医に見てもらう必要があった。そこでの診療費はなんと、目玉が飛び出るような額で約30万以上もする。米国での医療費の馬鹿高さは噂には聞いていたが、一番身近な歯の治療にもこんなにも天文学的な額のお金がかかるとは!普通の人は一体全体、どうや払っているのだろうか。これでは歯医者に行くことすらできないではないか。そもそも虫歯はいくら日頃から注意していても、できてしまうもので、しかもお金がないから、歯医者に行くのをやめとこうだなんて、本当にそんなことができるのだろうか。到底我慢できるものではないだろうから、行くしかないではないか。

 幸運にもこの特派員の人はひとまずお金を自分で立て替えて、後で日本の保険組合に請求すれば済むのだ。一時的には懐は痛むが後から戻って来るからまだましなケースと言える。そう言えば、日本の高額治療費の請求のシステムと似ているなあとふと思った。もっともあれは保険組合にお願いして、保険証を発行してもらわなければならないが、そんなに手間暇はかからない。もちろんひとまずは自腹で払わなければならないが、すぐに戻って来るので、あの制度を利用しない手はないのだ。

 なぜ歯科治療の話題を取り上げたかと言うと、今まさに自分が神経の治療をしている最中だからだ。いや、正確に言うと、過去にも経験があるからこそ余計に気になってしまうのだ。実は昨日、歯医医院で麻酔をかけて神経を取って貰った。麻酔が冷めた時、人によっては激しい痛みが出ることがあると言われたが、今回は何も感じなかった。そもそも神経の治療をしなければならなくなった原因は知覚過敏だった。だいたいが知覚過敏というのは一時的なもので、普通は治療は必要なくて、経過観察で済むことが多い。だが、痛む頻度が多くなると、これはもう神経を取るしか方法がないと先生に言われてしまった。

 本当は先週処置してもらうはずだったが、不幸にも麻酔が効かなくて、先生が器具で風を少し吹きかけただけでも、歯が染みて痛みを感じてしまった。「こんな状態では今日は何もできません。神経が興奮してしまっているから、麻酔が効かないんです」と説明され、「ひとまず、神経を落ち着かせる薬を塗って置くので、様子を見ましょう」ということになったわけだ。ただ、先生は「もし、どうしても麻酔が効かないようなら、思い切って神経に直接麻酔を打つこともあり得ます。その時は物凄い痛みを伴いますけどね」などと怖いことも言うのだった。なので、昨日は地獄に突き落とされるような荒療治!?もあり得ると覚悟を決めて歯科医院の扉を開けた。緊張のあまり心臓がドキドキしてきた。だが、いざとなったら、日頃の行いが良いのか、神様が味方してくれたのか、ちゃんと麻酔は効いてくれたのだ、本当に感謝しかない。そこで気になるのは治療費の額だが、2450円だった。日本人でよかった、と痛感した。

mikonacolon

つるみって何?

聞きなれない言葉に戸惑う、でもそのうち慣れるかも

 朝日新聞の土曜版に『街のB級言葉図鑑』というコラムが連載されている。先日の言葉は”つるみ”だった。つるみって何?と一瞬思ったが、おそらく、ツルツルしている状態を表わしているいるコトバだろうと見当をつけた。ツルツルと言わずにつるみと言いたいらしい。実はこれ、コンビニの店頭にあった〈旨さ!つるみ!冷やし麺!〉という広告の中で使われていた”つるみ”だった。このコラムを担当しているのは飯間浩明さんという国語辞典編纂者の方だ。専門家の立場から言っても、「ちょっと珍しいことばですね」との感想で、「み」は「そのような感じ」という意味の接頭語だそうだ。

 なので、赤いは赤み、おかしいはおかしみとなって、形容詞に付くが、なんにでもつくわけではない。だが、最近はそうでもなさそうで、想像もつかないような言葉にも若者がつけて使うようになった。例えば、眠いを眠み、とても深く分かるを分かりみが深い、などと表現するのだ。それで、つるみもそのようなものかと思ったら、そうでもなくて、業界では以前から使われていた。1994年の日本食糧新聞で、”太いつるみのある麺”とちゃんと出ているのだ。

 そうなると、もはや当方にとって、聞きなれない”つるみ”も許容範囲で、慣れるしかないのではないか。本当は少し違和感を感じても感じなくても、そんなものなのだと気にしないふりをするに限る。変にこだわりがありすぎて、気分が悪くなるくらいなら、いっそのこと容認してしまった方が楽ではないか。だが、やはり気になってしまう、”眠み”って、いったいどういうこと?なんでそんなに「み」をつけたがるのか理解に苦しむのが本音だ。

 折も折、日経新聞の一面にあるコラム『春秋』にも”「み」が増殖中だ”と出ていた。こちらは頻出単語でお馴染みの「やばい」が「やばみ」、「つらい」が「つらみ」に進化を遂げているようだ。つらみって、当方が知っているのは”恨みつらみ”だからそれとは少し意味合いが違いすぎるようだ。若者にあまり縁がない、いや周りにいっぱいいるのだが、面と向かって接する機会がないし、最近は他人の話を盗み聞きする機会も皆無だから仕方がない。コロナ前はあんなに、いくらでも聞き耳を立てていられたのに、今となっては若者の生態は深い霧の中だ。

 では一体全体、何を証拠に”増殖中”などと言えるのか。いや、いったいどこで「み」が勢力を伸ばしつつあるのか。そんな疑問がせわしなく頭の中を駆け巡った。コラムによると、SNSを覗いてみると、一目瞭然だと指摘している。「やばみ、半端ない」とか「つらみの塊」などという「み」が付く表現のオンパレードで、その空間では「み」は確固たる地位を築きつつあるようだ。私のように、その言い方はちょっと変じゃないんとか、その音はなんだか気持ち悪いからやめてなどとは誰も言い出しにくい雰囲気なのだ。最初に誰が使いだしたのかは分からないが、一見変な言葉に誰かが共感すると、それはたちまち拡散し、立派に市民権を持ってしまうのかもしれない。変だけど、今風な”新語”のようで、なんだか良さそうに感じてしまう。いや、私の中では断固としてあり得ないが。

 さらに驚いたのは、「食べたみが溢れる」という言葉で、なんじゃこりゃ!?と面食らった。どういうこと?とはてなマークが頭の中をいくつも飛び交うが、「食べたい」が極まった感覚をつぶさに表しているようだ。これって正直言って、言葉の乱れの現象のひとつに過ぎないのではないか。あるいは言葉を自由自在に操るというか、いわゆる言葉遊びを楽しんでいるかのようにも見える。コラムでは「日本人はこの種の持って回った言い方が好きなのだ」とあって、何かに似ていると指摘していた。それは昨今の岸田首相がよく使う「検討を加速します」という表現で、すごく意味があることを言っているようでいて、抽象的で曖昧で中身がないのだ。

mikonacolon

 

空白の時間を歩く

何もしない退屈な時間が嫌なので、ひたすら歩く

 先日の日経のエッセイ『プロムナード』は女優の大友花恋さんの担当だった。タイトルは「空白の時間を歩く」で、さてさて、空白の時間とは何ぞや?と当方は戸惑った。花恋さんによると、空白の時間とは、何もしない時間のことで、退屈でとても苦手だという。具体的に言うと、それは仕事がない休日をどう過ごすかという問題でもあるのだが、することがないというか、やりたいことが思いつかないらしい。こう書くと、カラスの勝手な思い込みから言うと、だいたい世の中にやりたいことは五万とあるのだから、探せば容易に見つかるはずだ。

 それでも見つからないというか、やることが思い浮かばない花恋さんは、やたらと歩くという行為を繰り返すのだ。夜寝る前に一日を振り返ってみると、「朝起て近所をランニング、戻ってきて身支度を整えて散歩。昼食をはさんで、また散歩。帰って来たら、お風呂に入って寝床につく」というもので、ため息がつくのを通り越してびっくり仰天する。なぜなら、せっかくの休日なのに、これでは全然休んでいないで、常に身体にスイッチが入っているオンの状態だからだ。勝手に推測すると、花恋さんは当方のようにのんべんだらりと羽を伸ばす、つまりオフ状態になることができない体質らしい。

 これまで何回も花恋さんのエッセイを拝見しているが、朝のランニングや夜の筋トレとちゃんと自分にやるべきルーチンを課している。それをストイックに守る真面目な性格だとお見受けする。残念なことに、私はご本人がどんな人か知らなかったが、最近やっとテレビのCMでお目にかかることができた。有名俳優の男性と一緒だったが、幸運なことにそのCMにはご本人のすぐ横に名前が載っていたので「ああ、この人が・・・なのか」とわかった。花恋さんがどんな人なのかを知ることができたのに、なにぶん一瞬のことなので記憶があやふやでそのお顔は思い出せない。顔ははっきりとは思い出せないが、これまでエッセイを散々読んでいるので、親戚の女の子のように思えてしまうのだ、当方のようなおばさんとしては。

 花恋さんの「やたらと散歩してしまう」という行為は当方にも身に覚えがある。まだ若い頃、休日に家に居るのが嫌だった。休日はその名の通り”身体を休める日”なのだが、一日中家に居るのが何だかもったいないと感じていたのだ。つまり、何でもいいから平安ではなく、”刺激”を求めていたらしい。”刺激”と言っても、そんなにたいしたことではなく、ほんのちょっとでもワクワク、ドキドキすることでよかった。ではそのような面白い何かはどこへ行けば得られるのか、といったら、当然家に居たらダメで、外に行かなければならない。それで、私の心は自然と外に向かい、その想いに突き動かされるようにして、身体は歩くという行為を実行した。

 とにかく外に行けば、何とかなる、つまりそこには常に人がいて何かをしているし、また何か面白いものが見つかるかもしれない、いや間違いなくそうだった。人混みが苦手な私は電車に乗るの避けるために遠い距離でも歩くことを選択した。それに電車で目的地に行くのではなくて、自分の身体を使って歩いて到達することに達成感を感じていたことも確かだ。お金がなくても、自力で行けることは変な話だがちょっとした自信にも繋がる。ちょうど日本各地で地震が頻発している時期だった。当時は「あなたは会社から自宅まで歩いて帰れますか」などというメッセージをよく見かけた。

 それで、もしもの時家まで帰れるかどうかを試してみることにした。もちろん休みの日に実行したのだが、まずは地図を開いて、どう行くべきか、どの道を行ったら最短距離になるかを調べた。少し不安だったが地図を頼りにたいして人通りのない道をひたすら歩く。途中で休憩したいのに喉を潤すべき場所がどこにもないのには参った。せめてちょっとした喫茶店でもあればよかったのに。仕方がないので、こんなこともあろうかと持ってきたボトルのお茶を飲み干した。結局行きは家から会社付近まで3時間近くかかった。こんなに歩いた経験がない私は疲労困憊でぐったり。会社近くの喫茶店でしばらく休み、帰りはもちろん電車で家に帰った。それでも、私は自力で行けたことが嬉しくて大満足だった。

mikonacolon

 

 

 

ドラマ「silent」

ただの恋愛ドラマと思いきや、なんだか違う雰囲気が

 川口春奈さんと目黒連さん主演のフジテレビのドラマ「silent」を毎週見ている。そもそもこのドラマを見ようと思ったのは、脚本がコンテストで入賞した若い人の手によるものだと知ったからだ。プロの脚本家ではなく、まだヒヨコの、でも将来有望で、既成概念に縛られない自由で新しい感覚を持った人が紡ぐストーリーなら期待できるのではと感じたからだ。コンテストで注目されるということは、ありきたりの平凡な内容ではあるはずもなく、何かキラッと光るものがなくては、到底無理だ。まずはお手並み拝見とばかりに第一回目を録画予約して、見始めた。

 想(そう)と紬(つむぎ)の高校生のカップルが、男の子の方の一方的な「好きな人ができたから」のメールで別れることになる。そして8年の月日が経って、偶然に再会したら、何とその相手は聴力を完全に失っていた。紬は想が耳が聞こえないことにショック受け、と同時に高校時代の楽しかった思い出が蘇ってくる。想をどんなに好きだったか、特にあの声が大好きだったと、当時の熱い思いが胸に込みあげてきて涙が止まらない。8年もの長い歳月が経ったのに、あれは昔のことだからと割り切ることができない紬は手話教室に通ってまでして、想とコミュニケーションを取ろうとする。

 ここで問題なのは手話教室に行きなよと勧めたのが紬の彼氏のミナトだということだ。見るからにどう見ても、至れり尽くせりの彼氏で、こんな人いるわけがない!?と思わず叫んでしまった。理解のある彼氏を演じてはいるが、実は心の中では暗い感情が渦巻いているのではないかとついつい疑ってしまった。紬も想とは友だちでいたいだけで、私たちの関係は何も変わらないと周りに断言した。そんな訳がないと興味津々の私は物語の展開が知りたくて、録画を毎週予約にしてしまった。どこにでもある三角関係、だが相手が聴覚障害者という点において状況は全く違う。このドラマのテーマは音のない世界に生きる人との恋愛は成立するのか、いやそれよりもお互いに分かり合えるのかということだ。

 言葉という音がない世界で、手話だけで自分の言いたいことを、思いを伝えられるのか。果たして相手と心を通わせることができるものなのだろうか。そんな疑問で頭がいっぱいになっていたら、ある事件が起こった。それはミナトが紬に「別れてくれない」と言いだしたことだ。紬は別れたくないと言い張るが、ミナトは「俺がもう無理だから。紬は良くても俺はダメなんだ」と譲らない。彼が言うには、これ以上一緒に居るとすごく嫌な奴になって紬に嫌われてしまう。嫌われたくないから別れたいのだ。要するにいい人でいるのに疲れたというわけだ。

 ここまでは何かのドラマでよくある場面だが、そこからが他のドラマと一線を画していた。何かというと、スマホの通話で、紬が口調は穏やかで、何でもない話をするのかと思ったら、ミナトに対する正直な気持ちを告白しだしたのだ。紬がミナトと別れたくないのは、コージーコーナー、つまり居心地が良い場所を失いたくないからだった。ミナトは自分にとって、彼氏というより弟、というより家族みたいなものでミナトと居るとラクだった。緊張感のカケラもなく、綺麗でいなきゃという努力も必要なかった。いつもミナトの隣でぐうたらして居られたから、いざその止まり木みたいな存在が無くなるのは嫌だった。

 告白の途中だが、私は椅子から転げ落ちるような衝撃を受けた。互いに泊まりあう関係なのに、なんだって?彼氏は男ではなくて、弟、いや家族ともいうべき存在でダラダラしていられるひだまりみたいなもの!?さらに、「ミナトって自分でも思ってるようにつまんない奴で、面白くもない、それに音楽の趣味が合わなくて、私の好きな曲は何を聞いても”いいね”しか言わない」と相手をけなしているが、本心はそれでも好きだったと言いたかったのか。あるいは、自分にとって居心地がいい相手だったから、だからこそ好きだったのか。いずれにせよ、わたしの中では「居心地よかったよ」というフレーズが印象に残った。

mikonacolon

 

やる気が出ないときの考え方

今週のお題「やる気が出ないときの◯◯」

どうしてもダメなら、諦めて休むもありか

 人間を長いことやっていると、当然やる気の出ないことが多々ある。そんなとき取るべき行動の選択肢は2つある。無理矢理自分を奮い立たせ、何とかやってしまうか、あるいは、やらないでサボるかのどちらかだ。前者の場合は私なら会社に行くことで、気分が乗らなくても、仕事を目の前にすれば惰性でなんとかなってしまう。そのくらいは社会人として、あるいは大人として朝飯前なのではあるが、仕事の出来としては多少問題が発生するかもしれない。何しろ自分の気持ちが入っていないものだから、集中力が散漫なので、細かいミスがちらほらと垣間見えるかもしれない。こんな仕事をするくらいなら、やらない方がましで時間の無駄じゃないと指摘されれば、その通りでぐうの音も出ない。言われてしまえばその通りだが、人間365日においてやる気全開の人などいないし、また集中力にもその時によってムラがある。そんな言い訳を並べたくなるのが人間というものだ。

 一方のやらないでサボる方の場合だが、生活の糧を得る仕事でない限り、許容範囲は大幅に拡大する。こちらは大いに自分を甘やかしていいのだが、つまり自分を精神的に追い込んでまですることではないという考え方から、しないことを選択するわけだ。世の中には自分がして当たり前だと思っていることをしないでラクに生きている人もいるらしい。例えば、部屋の掃除、整理整頓、洗濯、食料品や日用品等の買い物、これらは正直言ってあまりやりたくない。つまり、心がときめかないので、やる気が出ないのだ。毎日生きているせいでほぼ惰性のようについてくる付属品のようなものだ。だいたいがスーパーに行って心がときめく買い物をすること自体無理なのだ。そうなると、10代、20代の時のようなワクワクするようなあの胸のときめきを感じた”楽しい買い物”が懐かしくなる。今となってはもはや忘却の彼方だ。いや、そう言えば、最近少しドキドキして心が浮き立つような買い物をした。こんなことを書くと、ひんしゅくを買ってしまうかもしれないが、マイナポイントを利用して、いつものスーパーで買い物をしたのだ。その時の私は”少しでも家計の足しになればいい”という考えはさらさらなくて、普段は食べられないようなワンランク上の商品を試してみようと店内を巡っていた。それまで食べたことがない商品を手にしてホクホク顔の私は大いに幸せを感じていた。

 話を元に戻すと、そういつもいつもやる気が出ないからと言ってサボってばかりいると、つけが溜まってえらいことになるのはすでに経験済みだ。要するに、サボるというか、スキップするにも程度というものがあって、理性的な加減というものが必要なのだ。何事も”過ぎたるは猶及ばざるが如し”でやりすぎるのは良くないのだ。やる気が出ない時にひと休みのつもりでサボることに罪悪感を抱いてしまうことはできることなら避けたい。となると、サボった後のことを考えて、想像力をめいっぱい働かせると、自分の意志には反するけれども妥協せずにはいられない。

 恥ずかしい話だが、私は掃除があまり好きではないので、掃除機は部屋の隅に置きっぱなしだ。そんな私でも綺麗な部屋には住みたいので、ガムテープで髪の毛や埃を取り、雑巾で拭き掃除をするのを朝の日課にしている。まるで小学校の時にしていた教室の掃除当番のようなノリで適当にやっているので苦痛はない。最近はだいぶ寒くなって来たので、手がカサカサしてきた。これから暖房を入れるとなると、空気が乾燥するので加湿器が必要なのだが、今までは使ってはいなかった。先日、量販店の加湿器売り場に行って見たら、見た目ではそれとは分からないが、インテリアにもなりそうなおしゃれなタイプの商品に惹きつけられた。それを買おうかとすぐに思ったが、ふと見ると何やら注意書きがしてあった。「この商品はこまめにお掃除ができない方には不向きです。いつも清潔に保たないとカビ菌を部屋中にまき散らしてしまいますから」という文面を見た私は一瞬その場に凍り付いた。私は及びでなかった。すごすごと退散したのは言うまでもない。

mikonacolon