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ナポリタンは邪道?

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イタリア人はナポリタンのような食べ方を許せない?

 先日の日経新聞の『春秋』のコラムは”とんでも和食”の話題から始まった。「バーベキューソースのかかった天ぷら、フルーツ入りの巻きずし、つゆがひたすら甘いうどん・・・」と信じられない料理のオンパレードだ。海外旅行に行くと、世界の街のあちこちのレストランで目玉が飛び出るような得体のしれない日本食にお目にかかることが多い。「これって本当に日本食?」と叫びたくなってしまう。ロシアのサンクトペテルブルクの街角にも日本食レストランがたくさんあった。ウインドウに美味しそうな?料理の色とりどりの写真が載せてあるのだが、どれもなんだか怪しく見える。正直言ってどれも試してみようかという気にはなれない。それで「日本食をわざわざロシアに来てまで食べることないでしょう」と考え直す。それに”郷に入らば郷に従え”でボルシチやいくらのクレープ、サーモンパイなどを食べた方がずうっと美味しいからだ。それでもある日好奇心から、一度ぐらいは試してみようと思ったことがあった。その結果、食べて見ると、想像した通り「なんじゃこりゃ!」という感想しかなかった。

 コラムにはナポリタンについても興味深いことが書かれていた。ナポリタンと言えば、日本人の大多数が大好きなスパゲティの食べ方と言っていい。喫茶店の定番メニューでミートソースよりも人気があった。子供の頃を思い出すと、皆給食のナポリタンを美味しい、美味しいと言って食べていた。大人になって、海外旅行に出かけて、レストランのメニューを見たら、ナポリタンがなかったので不思議だった。どうやらあれはスパゲティの日本独特の食べ方なのだと薄々気づいた。

 英国の調査会社ユーガブが世界各国で行った調査によると、イタリア人にとってナポリタンは邪道だった。本場のイタリア人の大多数は邪道を大いに嘆いているという。記事によると「最も受け入れがたいのは『パスタにケチャプをかけること』で約9割は容認せずの回答だった」そうだ。ではなぜ日本でナポリタンと言う料理が生まれたのか。それはきっと考案したというか、思いついた人が美味しいと感じたから、その味が万人に広まったのだろう。人々に支持されなければ、ナポリタンは今まで存在してこれなかったと思う。当時としては斬新なアイデアで、なかなかイケテル味だったに違いない。イタリア人には大変申し訳ないが、料理は本来自由なもので、独創的なものだ。だからナポリタンは日本においてスパゲティの代名詞みたいな存在になっていいのだと思う。そう考えると、同様に冒頭のとんでも和食についても日本食として容認されていいのだ。

 この際だから、私がどうしても言いたいのは焼きそばのことだ。もし焼きそばが日本食で、あの美味しいそうな甘辛のソースが堪らないのが焼きそばだとするなら、外国で”焼きそば”と言われるのはいったい何なのだろう。ベルリンの屋台で売られていたのは、見た目からしてもうすでに不味そうだった。買う人は誰一人いなかったが、私は日本人だからベルリンで焼きそばに出会えたことが嬉しかった。その時私の頭の中にあったのは、ちょっと色は悪いけど、味はまずまずの食べ慣れた焼きそばのイメージだった。だが、いざ食べて見ると、「これはいったい何者?」と仰天した。その得体のしれない食べ物は、甘いのでもない、辛いのでもない、とにかく味というものがまるっきりない焼きそばだった。実をいうとパンに飽き飽きしていた私はパン以外の他の物が食べたかった。それで、何の考えもなしに焼きそばに飛びついてしまったわけだ。お腹は空いているが、それでも気持ちが悪い味がしてどうしても食べる気がしなかった。

 後になって、スペインのマドリードで日本の焼きそばに似た味がするニセモノに出会ったことがある。それはソースが甘辛味で、たぶん日本のよりは甘味が強かったのだが、外国の焼きそばとしてはまずまず合格点だったと思う。ただ、残念なのは、キャベツが白い芯の部分ばかり入れてあって、硬くてとても食べられたものではなかったこと。味は気に入ったのに、キャベツが邪魔で仕方がなかった。店は繁盛していたが、私にはキャベツの白さが恨めしかった。今考えてみると、あれはわざと芯の部分を使っていたのだろうか、それともかの地ではキャベツの緑のフサフサしている部分よりも固い芯の部分の方が好まれるのか。いや、そんなことはないだろう。いずれにしろ、今となっては謎である。

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