人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

ノエミさんの第二の人生

今週のお題「下書き供養」

 考えてみると、私にとって下書きというのは、ブログの形になるまえの卵のようなものです。不思議なことにブログのネタを何にしようかと考えているときには、悲しいかな、何も浮かびません。それなのにぼんやりしているときや、拭き掃除をしていたり、台所で料理をしているときなどに限って、ふと何かを思いつくのです。それは過去の思い出だったり、ドラマや映画のワンシーンだったりしますが、頭の中に突然現れます。ある時などは、もう忘れたはずの以前読んだことある本の中の文章が突然浮かんできたので、「そうだ、このことを書けばいいのだ!」と喜んだものです。でも放っておいたらそのアイデアは泡のようにすぐに消えてしまうのです。だからすぐ何か紙に、何でもいいから書き留めなくてはと必死になるのです。ブログのネタのしっぽを掴んで離さないことが肝心なので、「あとで思いだせばいいか」などと考えていたら、気体のようにその外殻は消滅してしまうそうです。この「外殻」という言葉はある作家が小説のネタを思いついた時、そのイメージのことをこう表現していたのです。

 さて、今日の私の下書きは、当時目に付いたところにあった新聞のチラシの裏に書いた文章とはとても言えない書き置きでした。

 

 ロシア旅行で偶然出会ったノエミさん。彼女がロシアに来ることになった理由が興味深い。娘のユリちゃんが本屋で言い放った「ロシアのキリル文字って面白いよ」の一言がきっかけだ。娘の「面白い」発言はズバリ、ロシアに行きたいのだと彼女は解釈した。それからというもの、娘の願いをかなえるべく彼女の奮闘が始まった。

 

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子供が命だった彼女の第二の人生は

 私がノエミさんと初めて会ったのは、エストニアのタリンからサンクトぺテルブルグへ向かうバスの中でのことでした。最初はバスで8時間もかかると聞かされていたので、疲れるとばかり思っていたら杞憂だったようです。車窓を眺めていたら、あっという間にトイレ休憩になりました。気分転換に外に出たらそこにはまさに草木が生い茂る田舎の風景があって、古びた小さなレストランが営業していたのです。そこのトイレはお世辞にも綺麗といえるものではありませんでしたが、なぜか「面白い」と思えたのです。便座がなかったのに、トイレットペーパーさえもなくて、普通の感覚で言えば、「ちゃんとしなさいよ、なってないわね」と怒っているところです。なのに、不便なのにそのことが面白いだなんて、どうかしていました。清潔で便利な都会に住んでいる人間が、田舎に来て嫌になるのではなくて、むしろ新鮮に感じる感覚、まさにああいう感じです。たぶん、私はあの時点でもうロシアに恋をしていたのだと思います。

 ノエミさんもまた同様に感じていたようで、私たちは異国の地ですっかり意気投合したのです。彼女はユリちゃんのためにロシア旅行の下見をしに来ていました。日本から見たロシアはテロ事件が相次ぐ恐ろしい国であり、また極寒の寒さなのに灯油が足りないなどという、マイナスのイメージのニュースしかマスコミは報道していませんでした。当時の彼女は子供が一番で子供の望むことは何でもかなえてやりたいと思っていました。海外旅行も自分が行きたいのはなく、子供のためと考えていたのです。ロシアに行きたいと言われたとき、「ねえ、どうしてあの国なの?」と困惑しました。知る限りのどうしようもない現実を聞かせてみても、ユリちゃんは諦めないのです。それでノエミさんは自分が今まで抱いていたロシアへの偏見を捨てることにしたのです。

 当時のユリちゃんは中学生でまだ母親を必要としていました。それが今では女の子二人を持つ立派な母親です。ノエミさんによると、子供が生きがいだったので、ユリちゃんの結婚には天地がひっくり返るくらいの痛みを感じたと言います。まず、あんなに我儘で自分勝手な娘を好きになってくれる人がいるなんて夢にも思わなかったことが痛みの原因の一つ目です。だから、このまま家に居てずうっと一緒に暮らすのだとばかり思っていたのです。今から思えば、それは自分勝手な考えであり、まさに同床異夢でした。二つ目はいくら言って聞かせても無断外泊ばかりして、反抗するのに時には甘えてくるのでやりきれませんでした。娘はもう女になったのに、依然として母親の前では娘を演じようとするのですから。どうしようもなく苦しいので、自分の心から娘を捨てたいとさえ思いました。娘は自分とは違う人間なのだと割り切って考えられれば良かったのです。でもその時はできませんでした。

 現在のノエミさんは子供二人は結婚して家を出たので、夫と二人暮らしで自由を満喫しています。今の気持ちは寂しいというより、解放されてよかったというのが本心だと笑います。当時を振り返ると、結局は子供への執着が半端なかったから、あんなに苦しんだとしか思えない。母親はつい自分を子供とセットで考えてしまうところがあるから、そういう考え方はやめた方がダメージは少ないと思う。子供が母親を必要とするのはほんの一時期であり、「いつまでたっても母親」という母性神話に惑わされるのはもういい加減にやめたらどうかと辛口な意見を言うのです。

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