人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

通販で5万円のダイヤモンド

穂村さんの赤裸々な告白に困惑、でもすぐに納得

 歌人穂村弘さんが、朝日新聞の『言葉季評』というコラムに書いていた。『妻が通販で5万円のダイヤモンドを買ったと聞かされた』と。ある日テレビをぼんやりと見ている時に、妻がポツリと呟いたそうだ。別にダイヤモンドを買うこと自体にとやかく言っているのではない。専門店でもなく、百貨店でもなく、通販でダイヤモンドを買ったことに、それが自分がよく知っている妻の行動とはとても思えなかっただけだ。さらに妻が言うには、ダイヤモンドはどこにあるのかわからないらしく、そのことについてどうでもいいらしい。つまりあれのことにはもう関心がないらしく、どうしても欲しくて買ったものではないらしい。

 その時の妻はダイヤモンドが希望の光のように見えていたらしい。妻がダイヤモンドを買ってしまった時期はちょうど、ストレスで不調を抱えていた時だと穂村さんは言う。メンタルをやられている時は”溺れる者は藁をもつかむ”が如く、何でもいいからすがろうとする。そこには冷静な判断なんて忍び込む隙間はない。あとから考えてみて初めて自分はどうかしていた、相当にやばい状況だったと冷や汗をかくのがおちなのだ。なんだかよさそう、幸せになれそうな予感だけで飛びついてしまうのは何とも浅薄だ。『それは問題の本質的な解決からは微妙にズレていると思う』と穂村さんも書いている。そして、自分も『その流れ。わかる気がする、ダイヤモンドではないけれど、私も毎日苦しかった時、ほとんど無意識に奇妙な逃げ道を求めたことがあった』と告白している。

 私はこの告白を読んで目から鱗だった。穂村さんは有名な歌人であり、社会的にも認知されている方だ。穂村さんの頭の中ではさぞかし泉のごとく短歌が毎日湧き出ているのではないか、とさえ思っていた。だから、「毎日が苦しかった」と言われても何のことやらすぐには理解できなかった。穂村さんはコラムの中で『一日に3回ドトールに行った自分のことをだめだとおもう』という古賀たかえさんの短歌を引用している。『ドトールに一日に3回も行くのは次元が変わってくる。明らかに最善の行動とは思えない』と指摘し、さらに『味のりを5袋ぐらいたべてから自分がまずい状態と知る』というシラソさんの短歌も付け加えている。

 どちらの短歌も自分で自分のことを「だめだ」とか「まずい」とよくわかっているのだ。ここでふと気づいたのだが、この二つの短歌は私がいつも拝読している朝日歌壇に載っているお行儀のいい品のある短歌とは一線を画している。これほど赤裸々にカッコ悪いともいえる、無様な自分をさらけ出してもいいものなのかと目から鱗だった。私の経験から言うと、ここでのドトール3回や味のり5袋に相当するのは、不二家のシュークリーム10個だった。今から思えば、どうかしていたのだ。むさぼるように次から次へと10個をペロリと平らげて満足していた。その頃はそれを食べて幸せを感じていたのだろうが、「あの太っている女の子」と噂されていたことも確かだ。

 要するに、短歌とは、人に見てもらって褒めてもらうためだけのものではないのだ。今の自分を、今の嘘偽りのない気持ちを表現するための手段なのだと気付かされた。俳句と同じように、短歌も規則に縛られずに自由でいいのだと思えてきた。きっと、人は思いが溢れてくると、何かに訴えたくなるものなのだろう。その時誰かに聞いてもらいたいが、その誰かにとっては自分の切実な思いなどただの愚痴にしか思えないのだろう。相手にして貰えないことが多い。そうなると、一番人に迷惑を掛けず、人畜無害なのは短歌に託すことだった。

 穂村さんは『ドトール3回も味のり5袋もだめでまずい状態だと当人はわかっている。でもどうしたらいいのかはわからない。そう言うことって確かにあると思うのだ』と感想を述べている。自分にも確かにそう言うことはあるのだと。

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