人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

いい子のあくび

なかなかの発想が面白い

 この「いい子のあくび」は、「おいしいごはんが食べられますように」で芥川賞を受賞した高瀬隼子さんの受賞後第一作である。私はこの本を公立図書館の予約サイトで見つけて、早速予約登録した。もちろん、本屋で見かけたことはあるが、手に取る気にはなれなかった。というのも、ある種の先入観に囚われていたからだ。高瀬さんの本、「おいしいごはんがたべられますように」が話題になったとき、大型書店で見つけて、すぐさま立読みをした。こんな時、大型書店というのは近所の書店に比べて、遥かに恵まれた環境に身を置くことができるから都合がいい。誰も私の行動に注目している人などいないから、人目を気にせず、後ろめたさなど微塵も感じることなく、目の前の本に集中できる。

 私の頭の中は、高瀬さんの本の内容に関する知識だけは豊富で、あれやこれやと情報が飛び交っている。ところが、実際に本物の本を冒頭から読んで見ると、さっぱり面白くない。これはどうしたことか、お昼に何を食べようかと思案する人たちの話が出て来て、一瞬あれ?と訝しく思う。だいたいがベストセラーというものは、冒頭から人を惹きつけ、ページを捲る手が止まらないものなのではないか、などとステレオタイプの考えが顔を出す。なのに、この本の書き出しはつまらない。それで、適当にページをペラペラと捲って、飛ばし読みをしてみる。やっぱり、読もうと言う気にはならない。その後も大型書店に行く度にこの動作を繰り返してみるが、やはり面白くないので、もういいやと諦めた。

 そんな経緯もあって、高瀬さんの本を手に取るどころか、読んで見ようと言う気さえ起きなくなった。そんなとき、図書館のサイトで高瀬さんの本に出会って、「つまらなかったら、すぐに返却すればいいのだから」と軽い気持ちで予約した。ただ、予約数が35だったので、これは1年待ちだなあと覚悟した。図書館の決まりでは、2週間借りられることになっているから、どう考えても忘れた頃に自分の番が来る。となると、ワクワクして待つどころか、まあどうでもいいかと期待などしない。チャンスがあれば、読んでもいいかぐらいの気持ちだった。

 それなのに、田舎から帰って、パソコンのメールを見て驚いた。12月27日に「1月10日まで取り置きしています」との連絡があった。待てよ、確か9月に予約したはずなのに、どうしてこんなに早いのだろうか。もしかして、本の内容がつまらないから皆早めに返却したせいで、嘘のように早く私のところに来たのか、などとよからぬことを考えてしまった。取り消しになったら大変と急いで、図書館に本を取りに行く。恐る恐る本のページを開く。この「いい子のあくび」がどんな話かはだいたいはわかっていた。なぜなら、高瀬さんはちょうど日経の夕刊のプロムナードというコーナーで毎週エッセイを書いていたから。その何度目かの回で、「歩きスマホは絶対に許せない」という小説を書いたと綴っていた。

 それで、私はてっきり、歩きスマホのことが中心だとばかり思っていたら当てが外れた。要するに、この小説の核心の部分は「いい子」に関してなのだった。高瀬さんが「おいしいごはんが食べられますように」で、何でもひととおりはサラッとこなしてしまえる人が感じる生きづらさを訴えていたように、この「いいこのあくび」でもそのスタンスは変わらなかった。小説の主人公である直子は、自他ともに認める、筋金入りの「いい子」だ。その「いい子」は自分はどう考えても割を食っていると考える。歩きスマホにしても、やっている本人は周りが気を使ってくれるのを当然と思って、何の心配もなく堂々とやっている。周りの配慮と親切に助けられていることに対する認識など全くない。となると、いい子は「ぶつかったろか」と思うらしい。いや、ただ思うだけでなく実行する。自分が痛い目をしてでも、歩きスマホの目を覚まさせてやりたいのだ。

 さて、それでどうなったかと言うと、その結末に対しての私の感想は「触らぬ神に祟りなし」とでも言っておきたい。それにしても、世間の目というのはどうしてこんなに理不尽なのだろう。正義を正そうとしただけなのに、逆に自分が悪者になるという悔しい結果を背負うことになる。やはり、歩きスマホはよけてあげた方がいい。その方が身のため、社会のためだと、この小説から教えられた気がする。

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