人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

歩きスマホ

歩きスマホの人の見ている画面を観察し、統計を取る!?

 『おいしいごはんがたべられますように』で芥川賞を受賞した高瀬隼子さんが、日経の夕刊にエッセイを書いている。1月からずうっと注目して読んでいるが、先日の話には思わず面白い!と膝を叩いた。高瀬さんは、『歩きスマホは許さないぞ』という趣旨の小説を書いたそうで、『物語は、主人公がスマホを見ながら自転車に乗る中学生をよけないで事故に遭うシーンから始まる』という。さすがに高瀬さんは違う、誰もそんなことを考えやしないのだ。普通ならもちろん事故に遭って痛い目を見たくないから、身を守るためによけるに決まっている。あえて、自ら火中に飛び込もうなんて考えるのはどうかしている人だけだ。それに、歩きスマホならぬ、自転車スマホをしている輩も、どこかしら、ではなくて、必ず相手が、皆がよけてくれると信じ込んでいるのだから。

 そして、そう言う人たちって、ある意味自分がマルチタスクをこなせることに、優越感すら持っているのではないかと思うことがある。つまり、自転車を手放しで運転できることを自慢するのと同様に、自転車に乗っているときにも、別のことができて、時間を有効利用できますみたいな感じで。だが、そのマルチタスクができていることが、周りの人の協力のもと成り立っていることに気付いているだろうか。よく思うのだが、歩きスマホの人は恐怖心というのは感じないものなのだろうか。一つ間違えば、人にぶつかったり、あるいは転んだりしてケガをしてしまうリスクがあるのに、それでも、スマホの画面から目を離さない。私から見れば、相当な自信がある人に見えてしまう。絶対他人にぶつからず、うまくよける術を身に着けている人だ。大勢の人の中にいながらも、自分の世界に没頭している人である。ある意味感心してしまう?人たちだ。

 高瀬さんの話に戻ると、なんと歩きスマホの人の画面をのぞき込む習慣が身に付いたと言うのだから、びっくり仰天する。少し考えてみても、あんな小さな画面をチラッと盗み見るだけで、何を見ているか分かるものなのだろうか。人間ウオッチングならぬ、スマホの画面ウオッチングで、好奇心が高じて、統計を取って自分なりのランキングまで作ってしまった。2年ほど誰にも内緒で続けた結果によると、3位はメッセージのやりとりで、歩きながらも人と繋がろうとしているなんて、なんて多忙な人なんだと揶揄したくなる。2位は動画でYouTubeや映画やドラマを見ている。高瀬さんはこの人たちについて、『たいていの人が耳にイヤフォンを付けていて、目に加えて、耳までふさいでいて、これでなぜ安全に道を歩けると思っているのか』と憤慨している。私などにとっては、こんな状態はほとんど自殺行為で、何があってもおかしくない。すべてなすが儘を受け入れた上で、スマホを楽しんでいるとしか思えない。

 そして、堂々の第一位に輝いたのは、ゲームである。『イヤフォン着用に関係なく、動画の人より集中して画面を見続ける傾向有り』と高瀬さんは分析する。その人たちはすれちがう時に人が目の前にいるのに気づいても、慌てて顔をあげることすらしないのだ。ゲームに熱中するあまり気にならない、と言うのは分かる気がするが、果たして歩いている時までゲームをする必要があるものなのだろうか。いや、彼らはその歩いている時間さえも惜しいのか、それくらいゲームがしたいのか。それとも、歩いている時のあのぼうっとした、いや周りの様子を窺っているのでそうでもないのだが、そんな無為な時間が耐えられないのだろうか。

 そういえば、知人が「乗り換えの電車のホームに早く行きたいときに限って、階段で、人の流れが滞るときがある」と歎いていたことを思い出した。階段を上っている時に自分の前を歩いている人の動きが急にゆっくりになるときがある。「あれ、何事だろう」と前方をよく見ると、歩きスマホの人がスムーズな人の流れを邪魔していたのだ。周りに迷惑をかけるだけならまだいいが、時には転んで膝小僧をすりむいてしまう人も見かけるという。なんとかならないものなのだろうか。

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