人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

赤い月の香り

千早茜さんの直木賞受賞後の第一作『赤い月の香り』

 正直言って、私は千早茜さんのことを、お名前はおろか、その存在さえも知らなかった。千早さんが、戦国末期、シルバーラッシュに沸く石見銀山を舞台にした小説『しろがねの葉』で直木賞を受賞したのをテレビのニュースで知って初めて、彼女がもうかれこれ15年以上も書き続けてきたベテラン作家だとわかって目から鱗だった。受賞後の新聞のエッセイで、身体には食べ物が必要なのはもちろんだが、私には心に栄養も不可欠だと強調していたのが印象的だった。心に栄養を与えると言うことは、要するに、本を読むことで、受賞後の喧噪と混沌の日々が続いているせいで、ほとんど読む時間が無いのを大いに嘆いていた。「このままでは私の心は死んでしまう」との強烈な表現に圧倒された。

 ちょうど、その頃私は図書館のサイトで本のネット予約できることを知り、利用し始めた。千早さんの著書『しろがねの葉』については、一応興味はあるが、どんな作風なのか知らないし、未知の作家でもあることから、そうそう触手は伸びるはずもなかった。となると、もし機会があれば読んでもいいなあくらいの消極的なスタンスで、様子を窺うのが人の常と言えるだろう。そうやって、とっくに旬が過ぎた小説を遅ればせながら読むのもラッキーと言えばラッキーだ。何しろ、懐が痛まないから。もちろん、どうしても読みたければ、ネット予約なんてまどろっこしい。いつ自分の番が回って来るかもわからない機会を、果報は寝て待てとばかりに首を長くして待っている、なんてことは考えられないことだ。しかし、現実には図書館サイトで何年も我慢強く待っている人がいるのだから、そのこと自体に私などは唖然とする。

 直木賞受賞作の『しろがねの葉』も御多分に漏れず、予約数254という天文学的な数字だった。物凄い人気に、頭がくらくらして、とても便乗する気にはなれなかった。いつものことだが、芥川賞直木賞の受賞者はその後、受賞後第一作を刊行することになっていて、千早さんもこの『赤い月の香り』を上梓した。早速サイトで検索してみると、図書館に蔵書として登録されており、5月の時点で予約数は24だった。考えてみると、直木賞受賞当時と比べると、人気がないのが気になるが、こちらにとっては好都合だった。いつも思うのだが、本を図書館で借りて読むことの便利さを喜びながらも、どこか少し後ろめたさが付き纏う。本当なら、自ら買って読むことが書店を殺さない唯一の方法なのだと十分承知しているからだ。

 それはさておき、少しばかり熱が冷めた感のある8月のお盆過ぎ、メールで取り置きの連絡があった。3カ月待った甲斐があったが、すでにドキドキ感はない。借りて読める期間は2週間で、最初は読めるかなあと溜息をついたが、何のことはないすぐに物語に引き込まれた。正直に言うと、最初のページから、ほかの作家にはない技巧的すぎる文章表現に敏感になって少しイラついた。途中でやめようとチラッと思いはしたが、気を取り直して再度読み始めたら一気に最後まで読めてしまった。この小説に登場する調香師、小川朔は天才的な嗅覚の持ち主で、依頼者の求めに応じた香りを創作するのが仕事だ。聞くところによると、「千早さん自身も熊の出没をにおいで感知した経験があるほど、鋭い嗅覚の持ち主だ。湿度の高い梅雨は特ににおいを感じ取りやすく、満員のバスや電車ではにおいに押しつぶされそうになる」そうで、ある意味千早さんの作品の世界には欠かせない要素のようだ。

 実際、ページを捲りながら、いったいどうやってこんなことを考え付いたのだろう、あるいは、こんな知識をどうやって、何処から知りえたのだろうと、疑問に思うことが多かった。意外にもその答えはすぐに知ることができた。朝日新聞の取材で千早さん自身が創作の秘密を公開してくれたからだ。「香りをテーマに執筆するにあたり、企業で働く調香師やお酒の蒸留施設などを取材した」そうで、「人が仕事をする姿が見られる取材は楽しい」」と言う。そう言えば、千早さんの住んでいる地域には都立公園内にバラ園があるらしく、小説にしばしば出て来るバラに関する知識もそこから辺からきているかもと想像するだけでウキウキする。

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