人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

費用は高騰、それでも海外旅行は楽しい

行かなければよかった、なんてありえない

 今回の旅行の最後のお楽しみは、ヘルシンキのヴァンター空港内の見事なクリスマスツリーだった。5年前に初めて目撃して、やはり北欧は違うなあと感動した。そんな期待も込めて、帰国日を11月の初めに設定した。だが、今回はどこをどう探しても、てんこ盛りのクリスマスツリーの大群は見つからなかった。ただ、以前の名残りとしての控えめなイルミネーションが空しく光っているだけだった。なんとも寂しい、こんな終わり方は予想だにしなかった。殺風景な空港を目の当たりにして、”不況”という言葉が頭の中に浮かんだ。日本では物価高が加速度を増しているが、欧州はその比ではなく、遥かに凄まじいのだとひしひしと感じた。もはやかつての空港内の賑わいはなく、どこの店も閑散として、ポツン、ポツンとしか客の姿はない。

 店のショーケースの中を見ても、客が来ないので、ロクな物を置いていない。あるにはあっても、馬鹿高いクロワッサンが以前よりも勢いを増した値段で売られていた。何の変哲もない、どこにでもある、たいして美味しくもないパンなんて、ハナからお断りだが、その値段がバージョンアップしていたから、見るのも嫌になる。これも時代の流れか、コロナ禍はこれほど大きなダメージをもたらした、そのことに深いため息をつかずにはいられない。嘆かずにはいられないが、こんな時に海外に旅行する私もどうかしているのか。だが、自分で確かめて見なければ、納得は行かなかった。例えば、どうして、大型書店の旅行本のコーナーはフロアーの片隅に追いやられたままで、コロナ禍が終わったにも関わらず、元に戻らないのかといった素朴な疑問とか。

 帰りの飛行機に乗って見てわかった。いつもなら、日本人のツアー客を見かけることが多いのだが、今回はいなかった。そう言えば、パリのオルセー美術館ルーブル美術館でも、日本人の団体客、いや外国人の団体客でさえほとんど見かけなかった。これは私個人の意見に過ぎないのだが、日本人はツアーに参加しないのではないか、つまり以前とは違って、海外に行かないのではないかと思えてきた。道理で旅行本の棚が復活しないはずだ。もちろん、お盆やお正月に海外に行く人はいるだろうが、彼らはお金に余裕がある人か、あるいはどうしても行きたくて堪らない人のどちらかではないのかと推測できる。もはや、海外旅行にでも行ってみるか、などという、別にそんなに行きたいわけでもないんだけれど、せっかくだから、というようなそんな好条件は用意されてはいないのだ。

 私にしてみても、最後にロシアに行って以来、4年間どこにも行けなかった。それで、言い方は悪いが、「パリにでも行ってみるか」と当てずっぽうに思いつき、たいした目的などありゃしないのに、海外旅行に行くことが目標になった。何でもいいから海外に行くことだけを目標に、それだけを生きるよすがにして生き延びてきた。信じられない話だが、当時は自分に”目標”などというものを持てるのかどうかさえ半信半疑だった。全く正気の沙汰ではない。頭がおかしくなっていたとしか思えない。まあ、無理もない。そりゃ仕方がない、目の前のことだけ考え、ただ一日一日をきっちり生きることに没頭していたのだから。

 正直言って、自分で決めたことなのに、旅行の具体的な計画をする際には大いに戸惑った。「これって、本当に行かなきゃならないの」などというありえない感情が渦巻くのを抑えられない。その原因は航空運賃の高さとホテルの予約が上手く行かないこと。航空運賃は4年前の倍以上で、(実際はサーチャージが高いのだが)小心者の私はこんな値段では自分の身の丈に合わないのではないかと躊躇した。それにホテルの予約にしたって、300ユーロ(日本円にして約5万円)もの補償金を取るところもあって、大いに困惑し、ホテル選びに時間がかかった。どれだけのホテルをキャンセルしたことか!特筆すべきは、バストイレ付きだとばかり思っていたら、予約確認書では共同となっていたりと、後で慌てることが多かった点だ。まだ6カ月も先の日付なのに「空いている部屋はあとわずかです」などと焦らされたりと、なんだか理不尽な目に遭った。もはや以前とは何もかも違うのだと思い知らされ、”浦島太郎”にでもなったような気分だった。

 それでも、実際に海外旅行に行った。今の偽らざる気持ちは、「それでも、行ってよかった」と声を大にして言える。世界の今を肌で感じることができたし、最近では「世界の給料は日本人の倍」とかマスコミが報道しているが、決してそんな人ばかりではないとわかったから。あれは世の中のほんの一握りの人に焦点を当てたステレオタイプに過ぎない。

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