人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

新聞小説

自然と読まされてしまうのがいい、とも思う

 正直に言うと、最近あることがとても気になっていた。何がかと言うと、ある新聞小説のことで、現在中日新聞に連載されている、朝井リョウさんの小説『生殖記』がどうみても、終わりそうな雰囲気なのだ。だが、新聞小説というものはたいていは長くて1年、短いものなら半年ほどで、この小説はとうに230回を超えていた。要するに、ざあっと計算すると、7カ月程続いていたが、どう見ても今の話の展開ではこちら読者としては、落ち着くところに落ち着くと言うか、これ以上の話の拡大、拡張はあり得ないと思えた。終わりが見えかけていた。

 この連載が始まる前に、朝井さんは著者挨拶の際に、何気に、この小説がハッピーエンドで終わることを匂わせていた。そのことを思い出した私は、主人公である尚成(しょうせい)君についての記述、『幸せなんです、尚成、今』というフレーズにピンときてしまった。それに、性的少数者に属する尚成君は、 会社を辞めて、LGBTQを社会に認めさせるためのNGOを立ち上げた後輩の申し出を断ってしまった。「一緒に活動しませんか」と勧誘されたのにも関わらず、なぜか積極的にはなれなかった。それと言うのも、彼はもっとひっそりと、社会の片隅で心の平安を保って生きていければそれでよかったからだ。

 こう書くと、私が毎日熱心にこの小説を拝読していたと誤解されてしまうかもしれない。なんのことはない、不真面目極まりない読者である。気が向けば一応読んではみるが、あまり何日も同じような場面が続くと辟易した。例えば、尚成君が、ある事実に直面して、思考停止状態に陥り、トイレに入ったまま出てこない。便座に座って放心状態のまま、うなだれて動かない、というような場面だ。そんなときは尚成君の声を聞くのは無理というものなので、彼の中に住み着いた”生殖器”の『私』が今の彼の状況を懇切丁寧に説明してくれるのだ。そうなのだ、まことに荒唐無稽な試みと思われるが、この小説『生殖記』の語りは『私』が勤めている。

 読むか読まないか、それを決めるのはその日の気分といった、どうしようもない私の言っていることなど当然気にしなくてもいい。どうせ、この小説の上っ面しか見ていないのだから。それでも、一応この小説をハサミで切って、スクラップしている以上、サラッとはあらすじは追えてしまうのだ。その理由はきっと、他紙の新聞小説と比べて、字が大きくて、読みやすいからだろう。それに余白も多い?し、知らないうちに嫌でも読まされてしまうのだ。そんなふうにして、今日まで来たが、朝井さんの小説とこんなに長い時間向き合ったのは初めてだった。食わず嫌いと言うか、普通なら触手が伸びない部類の作家の作品に、自然にと言うか、ついでに遭遇できるのが新聞小説の効用と言えるのかもしれない。

 主人公の尚成君は、多くの希望に満ちた若者のように社会とか会社に貢献したいと思っているわけではない。どちらかと言うと、将来に大志や野望を抱くタイプとは真逆で、毎日を平穏無事に過ごしたいのだと容易に想像できた。だが、こう見えても彼は仕事を卒なくこなすタイプで、社会生活をしていく上で何の支障もなかった。学生時代に数々のアルバイトも経験して、むしろどの場所でも重宝がられた。だが、そんな彼も、世の中には不器用なタイプの人間もいることに気付かされ、なぜこんな簡単なことがうまくできないのだろうなどと疑問を抱くことがあった。当然そんな仕事に支障をきたすような輩は嫌われる。彼自身もそんな人間に嫌悪感を抱いたのだが、そのときふと思ったのだ、これって、立派な”差別”なのではないだろうかと。

 となると、隠してはいるが、もし皆が自分が性的少数者だと知ったなら、おそらく生理的に嫌悪感を抱くに決まっている。つまり、自分が他者に抱いたあの嫌悪感は、自分に向けられるであろうそれと同種なのだと気付いた途端、そんな優位な立場から物事を見ていたことに自己嫌悪になったのだ。ここまで書いてきて、重要なことを言い忘れていた。それは昨日の夕刊に出ていたお知らせで、朝井リョウさんの『生殖記』が7月4日で終わると書かれていた。日頃から薄々感じていた私の予想が当たった。

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