人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

レジ袋をお店で売るのをやめたらどうか

すぐには答えられない問いにどう答えたらいいのか

 昨日の中日新聞のコラム『筆洗』を読んで、思わず唸ってしまった。なぜかと言うと、文部科学省が公表した全国学力テストの結果によると、中学3年生の英語の成績がかなり悪かったとの報告で、特に「話す」技能を問うテストではひどいものだったらしい。なんと一問も解けなかった生徒が6割を超えたという事実にはギョッとした。だが、そのまさか、とても信じられないという思いは、すぐに無理もないなあという納得と言うか、半場諦めの気持ちに変わった。

 それは、問題が英語ができれば、即答できるようなレベルではないということで、その子の社会に対する問題意識とか、あるいは、どうしたらそれを解決できるとかというアイデアまでをも問いかけるような内容であることを想像させるに十分だからだ。例えば、「ニュージーランドの留学生が英語で環境問題のため、レジ袋をお店で売るのをやめるべきだと訴えています。さてあなたはこれに対してどう思いますか」などという、大の大人でも答えに窮するような問題に英語で即答しなければならないとしたら、私なら困って、一言も発せない。

 はっきり言って、英語はおろか、日本語でだって、ちゃんとした意見を言うのは至難の業だ。コラムでは、まずは質問の主の提案に賛成か反対か答えるのが先決で、その後どうしてそのように思ったのか、その決定の理由を述べれば合格点は取れるだろうと推測している。だが、突然そのような質問をされても、普段から何も考えていないのだから、白黒つけると言うか、すぐに決定を下す余裕などあるわけもない。あれこれ考えを巡らせて、迷っている間に時間切れとなってしまうのが落ちだ。答えられなくて、情けなくても、予期せぬ質問に呆然としてしまうのだからどうしようもない。

 よく考えてみると、このニュージーランドの留学生の提案は実に的を得ている。元はと言えば、昔はレジ袋などという便利な物などなくて、どこの店でも紙袋だった。近所の八百屋さんなどは、新聞紙で作った袋を使っていて、いまから思えば、まさにエコだった。その八百屋さんもいつの頃からか、紙袋をやめてレジ袋を使うようになった。スーパーでレジ袋が有料になったからと言って、誰もが皆がレジ袋を使うのをやめるわけでは無い。いやむしろ、そんなこととは関係なく、道を歩けば、何処から来たのかわからないが、転がっているレジ袋に出会うことが多い。それは、風に乗せられ、やがては海に運ばれて、海底の奥深くで眠り続けることになる。

 レジ袋を作るから、あんな便利なものがあれば皆使いたくなる。だから、ニュージーランドの留学生は根本的な原因となる「売る」という行為をいっそ失くしてしまえばいいのだと主張するのだろう。レジ袋と言えば、以前自然分解する材料で作られた、土に還るという理想的な材質のレジ袋が話題になったことがあったが、最近はさっぱり耳にしなくなった。誰もが思う、あったらいいなあ、はなかなか現実には難しいらしい。

 私は一瞬、留学生の主張に賛成しかけたが、もしも、買い物に出かけてエコバッグを忘れたとしたらどうしたらいいのだろう、と想像すると、なかなか賛成できない。いや、別に紙袋でもいいのだが、その場合は、豆腐やら、糸こんにゃくやらの水が漏れる食品を入れるのには甚だ心許ないのだ。いずれにしろ、このまま現在の生活を続けて行けば、必ず限界が来るのは目に見えている。それが薄々わかっているからこそ、留学生は敢えて厳しい選択を提案しているのだ。今、ふと思ったのだが、私はこの留学生の問いかけに対して考える時間が与えられているからまだいい。だが、テストを受けている当事者は、間髪入れず、瞬時に考えをまとめて英語で表現できなければならない。日本語でも難しいのに、それを外国語でとは。なんと恐るべき才能の持ち主かと目を見張るが、コラムではこんな難問には対策が必須だということで、最後に、日頃から新聞を読むことだと書いている。「悪いことは言わない。毎日新聞をお読みなさい」と。

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