人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

コートが割りばしに当たって

謝罪しない若者、残念

 昨日の朝日新聞の投稿欄『声』に載っていたのは「謝罪しない若者、残念」というタイトルの記事だった。投稿者は川崎市在住の79歳の男性で、たまたま入った蕎麦屋で”事件”に遭遇した。その人が大好きなもり蕎麦で、冷酒を楽しんでいた時に事件は起きた。隣の若いカップルが帰ろうとして席を立ち、男性の方がコートを勢いよく羽織ろうとした。そこまでは何でもないことだが、その勢いが強すぎてもりそばを食べていた男性の箸を床に落としてしまったのだ。それなのにコートの主は気にもかけずに立ち去ろうとした。

 こんな時やってしまった方はどうでもいいかもしれないが、やられた方はひとこと言ってやりたいのが人情というものだ。なんとも惨めな話ではないか。せっかく大好きな食べ物を肴にお酒を楽しんでいたのに、見も知らぬ他人のせいで、至福の時間を台無しされたのだから。当然のように、男性は「あなたのコートが当たって箸がおちてしまいましたよ」とコートの主に訴えた。ところが、当の彼は「あっ、そう」とだけ言って店を出て行ってしまった。男性は若者に一言謝って貰えば気が済んだのに、なぜ彼は「ごめんなさい」が出なかったのかと言いたいのだ。「なんだか味もそっけもないそばになってしまいました」と残念でならないと。

 この話を読んだら、以前カフェに通っていた時のことを思い出した。冬になるとカフェで気になるのは隣の人のジャンバーやコートの脱ぎ着の時だった。席が密集しているような店では、よく隣の人がコートを脱いだり着たりするときにもう少しで衣服の端っこが自分に当たりそうになったり、あるいは微かに埃が舞うことがあった。いつも家で普通にやっているようなやり方ではダメなので、特に注意する必要があった。隣の人の迷惑にならないようにゆっくり、そおっとスマートにやるように努力していた。当然のことだが、カフェはサンドイッチを食べたり、コーヒーを飲んだりする場所だ。自分が何かを食べている時にはできればコートの脱ぎ着はご遠慮願いたいのが本心だ。

 まあ、こんなことを考えたら、カフェには行けなくなるのかもしれないが突き詰めていくとそれが真実なのだ。その昔友人に、あんなごちゃごちゃしている、煩くて堪らない場所で、ものを食べたり、勉強したり、そんなことがよくできるねと言われたことがあった。当時はその言葉は私の中を素通りし、その言葉の意味を考えようともしなかった。だが、3年近くあの混沌とした空間から遠ざかっていると、なんだか不思議な気持ちになってくる。最初は寂しくて、懐かしかったのに、だんだんとその状況に慣れてしまった。それどころか、閉ざされた空間だと毛嫌いしていた自分の部屋こそが、安住の地なのだと思ってしまう始末。なんたることか、物がごちゃごちゃしていて落ち着かないと決めつけていた自分の部屋がベストだなんて。生活感がありすぎて集中できないはずの空間をcozy cornerだと錯覚するだなんてありえない。

 だが、今となってはそれは錯覚ではなくて、確信に変わりつつあった。ある日私は気分転換をするために、たまには本でも読もうとカフェに入った。それも店内ではなくて、テラス席でのんびりしようと思った。周りには誰もいないまたとない空間だったのに、少し経つと、なんだか落ち着かない。籐で作られた椅子が座り心地が悪いせいかもしれないが,お尻がもぞもぞして気になって仕方がない。そのせいか全く本の世界に入り込めなくて、「今日はもう帰ろうか」ともう一人の自分が囁いた。そうなったらもう躊躇する理由などないので早々に立ち去った。正直に言うと、私はもうカフェにじっとしていられない体質になってしまったらしい。

 最近つくづく思うのは、以前と比べてカフェでの飲食が天文学的に高くつくということだ。某有名チェーン店でさえ、もはやワンコインでコーヒーと菓子パンを飲んだり食べたりすることは難しいのだから。気軽に「ちょっとお茶でもしない」と誘えなくなったことは残念だが、一方では気が合わない人と付き合う必要もないので嬉しい限りだ。

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