人生は旅

人生も旅もトラブルの連続、だからこそ‘’今‘’を大切にしたい

散歩しながら声を聴く

秋が深まり、やがては何もない冬が

 最近特に感じるのは秋が一層深まって来たなあということ。毎朝通りすぎる公園にあるクチナシが剪定されて、以前のような勢いを失った。おまけにところどころの葉っぱが黄色くなっていて、このまま行けば、すべて無くなるのも時間の問題だ。髪の毛が抜けるようにだんだんと裸木になっていくのだろう。そう言えば、川沿いにある桜の樹々の葉っぱも今では残り少なくなった。なのに街路樹のイチョウはどうしてあんなに青々としていられるのか。しかも路上にいっぱい銀杏をまき散らしておきながら、関係ないだなんて顔をしているみたいだ。銀杏特有の匂いを嗅ぐと自然と秋を感じてしまうのは私だけだろうか。

 朝散歩をしていると、いつも会うのは女性二人組で、世間話をしながら歩いている。だいたいが、ひとりでランニングやウォーキングをしている人が多い中で、この人たちが目立つのは片方の人が道端にあるペットボトルや空き缶を拾っているせいだ。片手にビニール袋、もう一方の手にはトング、じゃなくて、もっと長いやつ、とにかくゴミを挟むために使う道具を持っている。この人の行動を見ていると、えらいなあ、ああいう人がいるから町は何とか綺麗さを保っているのだと痛感する。それに毎朝ウォーキングと清掃が一度にできてまさに”一石二鳥”だ。でもよく考えてみると、誰かと一緒だからできるので、おそらく一人だけだったらできないのではないか。つまり、明らかに清掃が目的だと皆の目に写ったとしたら、ちょっとその重圧に耐えられないのではないかと思う。そんなたいそうなことをしているわけではないのに、世間の目が重たいと感じたら、その場合はもうカモフラージュするしかない。

 ひとりの女性がさも井戸端会議をするかのように、「あの人からこんなこと言われたんだけどどう思う?」と別の女性に質問する。二人はふらふらとのんびり歩いているが、もうひとりの女性は「私が思うには・・・」と答えながら、視線は道端の空き缶の方を向いていた。そんな何気なくゴミを拾う姿勢が目立たなくていい。あくまで散歩のついでにゴミ拾いをしているだけなんです、という軽い行為だと皆に思わせてしまうところが素晴らしい。最近は昔は毎朝普通にしていた自分の店やマンションの前の清掃をする人が少なくなった。いや、そんな人は見たことがない。植え込みなどの目に付きにくい所にはゴミがごまんと捨てられているはずだ。でも日常の忙しさにかまけて見ようとしないだけなのだ。

 いつもの散歩コースを外れて、別の通りを行くと、団地の駐車場の植え込みのスペースにずらりと作業服姿の男性たちが座っていた。よく見ると、建設作業員のようだったが、その中には公園で掃除をしているのをよく見かける高齢者の姿もあった。どうやら道路の向かいに建設会社があるようで、何人かはそこでの仕事を待っているようだった。建設会社の前の道路には数台のミニバンやトラックが止まっていた。その日の彼らは口々に皆、「やばい、やばい」を連発していた。なぜなのか詳しいことは分からないが、間違いなく危ない、一つ間違えば命の危険に曝される場面に遭遇したのだろう。誰かが、「あそこは崖だから、気を付けないとね」と言うので、思わず私はその発言の主の顔を見てしまった。なんとそれは高齢者で、他人事ながら、こんな人がそんな危ない場所で作業して大丈夫なのかと心配になった。

 以前、シルバー人材センターについて既述したが、再び思い出してしまった。近所にある公園の清掃なら何の問題もないと思うが、急な斜面や崖での作業は高齢者には向いていない。シルバー人材センターだから、その名の通りで高齢者でも安全安心の仕事かと思いきや、実際はそうでもないらしい。散歩の途中で人々の発する声を聞いて初めて、他人事だったことがまさに今現実に起こっているのだと気付かされた。

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